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2005年06月17日
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1578年、上杉謙信は49歳で脳出血のため急死する。(原因は酒の飲みすぎ?)そして後継者争いがはじまり、御館の乱(みたてのらん)このあたりの話は先の話のように女性陣の働きもあり、景勝公が真っ先に春日山城をのっとり、武器蔵と金蔵を納め先手を打ち、直江兼続が中心となって、家臣の取りまとめと景虎の姉婿である(北条氏康・氏政が武田家と同盟を結ぶために娘を武田勝頼へ輿入れさせていた)武田勝頼までも上野領の一部割譲と黄金1万両、菊姫の輿入れで味方に引き入れ4年後1580年勝利を勝ち取った。
上杉謙信存命の晩年、国政の中心には、河田長親とともに直江景綱で、そのあとを、直江信綱が引き継いだが、1581年御館の乱の褒美をめぐり、山崎秀仙の讒言で褒美をもらえなかったと不満に思った毛利秀広は、山崎秀仙に切りかかり殺した上、たまたま一緒にいた直江信綱も一緒に殺されてしまうという事件が発生、直江信綱には子供がなく断絶となりそうになったとき、上杉景勝公は、直江家の断絶を惜しみ、1583年直江信綱の未亡人、先に話のあったお船の方に御館の乱(みたてのらん)に戦功が大きかった与六(兼続)と婚姻継がせ、直江兼続とし、山城守とし、与板城城主として、国政を握らせることとなった。
そして、景勝への文書は必ず直江兼続を通すようになったという。
こうして直江兼続は表舞台に現れることとなった。





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最終更新日  2005年06月17日 02時49分05秒
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