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カテゴリ:佐竹氏
19代佐竹義重公が、家督を譲り受けた状況は非常に厳しい状況にあった。
南の関東には小田原から関東に支配をひろげてきた北条氏の手が忍び寄り、北は、白川地方に根拠をもつ白河氏・会津若松地方(若松は、のちに赴任してくる蒲生氏郷氏のもといた近江・滋賀県の地方の名前をつけたもの)芦名氏に挟まれ、なおかつこの両勢力は同盟を結び挟撃してきた。 これに対し、義重公は、まずは近隣国の平定に着手、1569年いまの茨城のつくば地方に勢力をもつ、小田氏を宇都宮氏と協力してくだし、1572年、いまの栃木県那須地方に勢力をもつ那須氏を内乱に乗じて介入、那須家の娘を義重公の息子義宣に迎えること、所領の一部を佐竹に譲ることで和睦した。 北条家は4代目氏政公のころから下総(千葉県北部)常陸、下野の侵略を開始した。1671年陸奥南郷に、白河氏・芦名氏に攻め込まれ、これに対応し義重公が出兵したさい、その背後をつくように北条氏政公が侵攻、義重公は、反転して鬼怒川を挟んで対峙・激しい攻防が行われたが決着がつかなかった。 翌年も陸奥南郷に、また白河氏・芦名氏に攻め込まれ、さらに転戦、赤館・寺山を占領したところ、宇都宮氏の重臣皆川広照氏が北条氏に内通反乱を起こしたため、再び転じてこれを平定した。このようにしばしば挟撃をうけピンチを迎えたが、1575年2月、白河家につかえていた佐竹の旧臣和田昭為の返り忠にて白河城をおとし、また、このころ義重公は上杉謙信・織田信長と親交を結び、1576年佐竹氏の源氏の部門を認められ信長の奏上にて義重公は、従5位下常陸介に任じられ権威をうるとともに、1577年白河氏の背後で操っていた芦名氏と上杉謙信公を通して講和に持ちこんだ。これをきっかけに佐竹家は、織田家→豊臣秀吉と友好が行われるようになった。この講和の結果、このときの白河氏の大名白河義親氏は引退、佐竹義重公の次男を養子とし次の城主とし、1579年白河城に入った。 こうして北部は一時安定したが、北条氏の攻撃は連年のように繰り返され、1584年には、北条氏直公は総力を挙げて来攻、これに対し義重公も周辺大名を結集、渡良瀬川をはさんで対峙、このとき義重公は8680丁もの鉄砲を用意して対抗、勝敗がつかず、講和。佐竹氏の実力を示すこととなり、その後北条氏の大規模な侵攻はなかったという。 ということで、今日はここまで。火曜~水曜日は36時間勤務のため次回更新は木曜日の朝になる、、予定^^; お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2005年06月20日 05時24分09秒
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