テーマ:日本の進むべき道は?(20)
カテゴリ:すべては有権者の責任
「日本をアメリカの州に加えてほしい」それが戦後日本のとった道だった。「あの戦争は侵略戦争であった」と発言した細川元首相の、戦争という重い言葉を、たった一言で片付けてしまった、その軽さには、怒りを覚えるより前に、呆然としてしまった。その細川氏の発言が、イギリスのエコノミスト誌の巻頭論文にとりあげられ、「この問題はサンフランシスコ条約で解決済みの問題で、学者がいうのならともかく政治家がいうべきでない」と失笑をかった。国際法上の知識もなく、国益を損なうこともわきまえず、誰彼なしに謝罪をしたがる政治家は細川氏だけではない。自社さ連立政権時、時の首相、村山首相が東南アジアを歴訪した際、首脳会議の席上、「侵略国日本の戦争責任」について謝罪の意を表明したところ、マレーシアのマハティール首相から、「この前の戦争のことを言い出せば、百年前、二百年前のことも問題になり、結局は植民地宗主国に対する補償問題に波及し収拾がつかなくなる。歴史に教訓を学ぶことは大切だが、過去ばかり見ているのは、いかがなものか」と切り返され、絶句してしまったという。戦争責任といえば、「他国家の押し付ける日本国責任論はすべて善」という単純図式で、日本の過去を糾弾する正義の味方横行の昨今、「日本の戦没学生は総体として侵略戦争の担い手であった」という平和ボケもここまできたのかと唖然とする。「俺たちの苦しみと死が、俺たちの父や母や弟妹たち、愛する人たちの幸福のために、たとえわづかでも役立つものなら」大学ノートに、魂の引き裂かれる叫びを遺し沖縄天号作戦で特攻戦死した若き学徒たちが、命を賭けてまで希求した日本はどこへ行ってしまったのだろう。至純の特攻の若者たちを石つぶての如く修羅に投げ込み、「諸子たちだけを行かせはせぬ、この冨永も最後の一機で突っ込む決心である」と軍刀を振りかざして大言壮語し、戦況不利とみるや部下を放置し、フィリピンから台湾まで、我先にと遁走した冨永恭次中将や参謀たち。そしてニューギニアの戦場に、航空部隊七千人の将兵を置き去りにして敵前逃亡した稲田正純少将。敗戦直後、知覧からの「将軍自身による」最後の特攻決断を鈴木大佐から迫られ、「死ぬばかりが責任を果たすことにはならない」と唇を震わせたという菅原道大中将と、参謀長の川島虎之輔少将。そんな彼らが、戦後長く生をむさぼって、亡霊のごとく老醜をさらしている姿をみるにつけ、祖国の急を救うため決然と死地に赴いた二十歳前後の若者たちや、ひとりの教官とその妻子の悲しみに満ちた清々しさを思う。しかし、太平洋戦争のなかにあって、青春のいっさいを祖国にささげて戦った若者が、戦後、軍国主義者だと罵倒され、特攻という戦術の外道、指揮官の無能、堕落を示す「統率の外道」である軍の上層部、時の政治家、そしてA級戦犯(A級戦犯であるにもかかわらず、米国に好かれ、戦後に首相になったものがいたが、また、その子孫が今、首相になろうとしている)が保身に汲々として平和主義者として賞賛されるような風潮に義憤さえ感じる。飽食の時代といわれる現在の安全地帯にいる傍観者たちは、戦争という理不尽な修羅の中に斃れた人々にむかって、さまざまなことを喋り散らしています。なかには、戦場に向かった者すべてが、「侵略者」だという自虐的な暴言を弄している反日的日本人もいる。マッカーサー元帥が占領下の日本で翻訳を禁じたという、GHQの女性歴史学者ヘレン・ミアーズが1948年に書いた「Mirror for Americans: Japan」によると「平和愛好国」を自称する欧米民主主義が「極東軍事裁判」で裁いたのは、「実は・・・」ニッポンという鏡に映った欧米列強自身の姿だった、という。パールハーバーは、日本の一方的な攻撃によって仕掛けられた卑劣な奇襲作戦だというが、この攻撃は、青天の霹靂ではなく、連合軍側が、アメリカ、イギリス、中国、オランダ包囲陣を張り、経済封鎖し、日本を挑発した経済戦争への反撃だったということは、公式記録が明らかにしている・・・とヘレン・ミアーズは言う。日本人は、日本人に対して戦争の総括をしていない。自民党の右翼的政治家、何の歴史認識ももたない政治家、官僚たち。故郷を守るために散った若者たちと老醜をさらして生きながらえる戦犯、軍上層。戦後、歴史教育さえ、まともにされていないなかで、今の日本人ひとりひとりが資料を読み、学ばなければ、中国や韓国の人たちに誤解を解くことさえ無理だろう。
<戦争を考えるお勧め本> 今日われ生きてあり 特攻基地知覧 →終戦の日を境に是非、読んでほしい3冊です! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年08月05日 23時46分05秒
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