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カテゴリ:スピリチュアルな生き方
さて友人と話していたら、小さいころ学んでいたキリスト教によって、いつも罪悪感を感じてしまう、という話が出ました。
たとえば、安息日に自分の好きなところに遊びに行っていいのか?とか、お坊さんのような聖職者がなんで酒を飲むのか疑問に思ったりとか、こんなことをしたら心の中の罪になるのではないか?とか、戒律に伴う罪悪感が常に心の中に浮かんでしまうそうです。 たぶん彼女は固いまじめな人なのですね。私も小さいころ教会に行って、まずモーゼの十戒から入りいろいろなキリストの名言は学びましたが、戒律と実生活の矛盾を感じつつも日常では特に罪の意識を感じることはありませんでした。キリストの教えは好きでしたが、腑に落ちないところもずっと持ち続けていました。 幸福の科学の教えに触れてから、いろんな疑問が解けた気がしました。いろいろな時代にあった救世主が生まれること、時代がたつと生活習慣や文化の発展によって、教えの内容が古くなってしまうということを学びました。 その時代には必要だった戒律が、今では意味のなさないことだってあるはずです。安息日を守れというのは、今の時代で言うと労働組合が労働者を守るための意味と同じことかもしれません。働き過ぎを戒める意味だったら、逆にまったく何もしないで寝て暮せという解釈をしてしまっても変です。 汝、人を殺すなかれ、汝の敵を愛せよといいながら、侵略のための戦争を繰り返してきたクリスチャン。矛盾しています。弟子は師をまねるといいますが、悲劇のキリストと同じく受難を引きよせた生き方をするクリスチャンも多いそうです。キリスト教は人間は罪の子であるという罪悪感を植え付ける一種の洗脳の部分もあります。 人間は神仏の子で、心の中は神仏につながっていると考えるほうがいいでしょう。 もちろんイエス様は素晴らしい実績を残した方です。弟子たちがどう解釈したかでその後の方向性が決まります。 にほんブログ村
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