|
カテゴリ:スピリチュアルな生き方
今日はクリスマスですが、日曜日のせいかなんとなくもう終わった感がありますね・・
すぐツリーを片づけなければ。 23日は社交ダンスパーティー、今日は夕方からアイスダンスパーティーです。こんなに遊んでばかりでいいのだろうか・・ 23日は毎年クリスマスパーティーがあるので、天皇誕生日だったということは、思い出しもしませんでした。すみません。 ところで、私は今法律も勉強しているところなんですが、現代の法律というのはつくづく迷路だなあと感じます。 結局法律家というのは、事例に対して、こういう根拠条文または判例があるからという風に説明ができなければならないわけです。 世の中が複雑になっているから、いろんな事例があって大変なわけです。 さらに条文はどんどん古くなっていくわけで、解釈を広げたりだとか、改正したりだとか、常に更新もしていかないといけない。 民法なんかは、まるで古典を勉強しているような感じです。 でも普遍的なことは変わらないと思います。 思い起こせば、私が法と出会ったのは、小学生の頃、キリスト教会ででした。 その法とは、「モーセの十戒」です。 カトリック教会・ルーテル教会の場合 わたしはあなたの主なる神である。 1. わたしのほかに神があってはならない。 2. あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。 3. 主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。 4. あなたの父母を敬え。 5. 殺してはならない。 6. 姦淫してはならない。 7. 盗んではならない。 8. 隣人に関して偽証してはならない。 9. 隣人の妻を欲してはならない。 10. 隣人の財産を欲してはならない。 今、ウイキペディアをググってご紹介しましたが、この法が小学生の私にも心に止まりました。プロテスタント教会の場合は多少ニュアンスが違うようですし、私の記憶の中では「心の中で罪を犯してはならない」という文言もあったと思います。 要は「法」というのは究極は「宗教」であり、「倫理」であると思います。この土台部分が形成されていなければ、法律の意味をなさないと思います。 この「モーセの十戒」というのは、あたりまえのこと、といえばあたりまえの内容なんですが、2000年も前の時代には、人を殺すのだって、あたりまえにされていたのかもしれないし、盗むことに対する倫理観も薄かったのかもしれません。 (あ、「唯一の神」と名乗ったところは、後世の争いの種になりましたね。) 私は子供ながらに姦淫てなんだろうなあ?と思っていましたけどね・・ とにかく、「モーセの十戒」が壁に貼られていたのを見たのが、私と法の出会いでした。 にほんブログ村
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[スピリチュアルな生き方] カテゴリの最新記事
|