さっちゃんのお気楽ブログ
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ハンカチでめだかすくいし母とふたり 墓参の帰り小川きらめく 朝早く起きて汽車でゆく祖先の墓参り 露に濡れている背より高い枝、大きい葉 桑畑の中をかきわけてゆく 父は子供の頃の思い出を話しながら 親子三人で父の故郷を尋ねるのは盆か彼岸である 小川に来るとめだかが群れていた 昔は川の岸も自然のままでたらたらと下りてゆける 手網もないのでハンカチを広げてすくった 墓参の水を入れてきた一升瓶に入れて持って帰った 懐かしい思い出である 人気blogランキングへ ご訪問ありがとうございます。
2009年11月15日
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四国山脈の奥へはじめていきました 今から15年昔の話です 洋画教室の仲間と先生に連れられて はじめての写生会でした こんな山奥は珍しいものばかりで忘れられません 平家の落人伝説のある祖谷は何度かいきましたが 土須峠を越えてゆく道は谷へ転げ落ちそうなけわしいみちでした 人気blogランキングへ ご訪問ありがとうございます。
2009年09月08日
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熊谷さんの思い出 四国霊場8番の熊谷寺へ写生に行ったのは 十年もっと前のことでした 四国には小さいけれど重文に指定されているお寺が多い お寺とか塔を描くのは背景が美しいから 上手く描けそうな気持ちになります 塔の屋根のそりがむつかしいのです 夢中になって3枚ぐらい描きました 吉野川を渡るとすぐ近くて、桜のころ、紅葉のころと 何度か描きに行きました 遠く近くからお参りにおとづれるお遍路さんたち、春もいいけれど 秋も多い 優しくコスモスが風にゆれる風情もいい 人気blogランキングへ ご訪問ありがとうございます。
2009年08月24日
烏骨鶏を飼ったとき (2) 空き箱を利用してりんご箱くらいの小屋を作って飼う事にした 数日たって困ったことに気がついた おんどりだから「こけっこっこー」と大きな声でなく それが昼間ならいいが時を選ばず不定期になく 夜中に突然「こっけっこっこー」 そのうちにご近所から苦情がでるかもしれない 汚れるのがイヤだから餌をトレイにいれてやろうとすると 戸を開けるや飛びついてきてひっくり返してしまう 躾の出来ていない行儀の悪いとりだ とりは暴れるわたしは怒ってばかりで絵のモデルにならない 一個百円もするという卵も産む見込みが無い男の子だ 人気blogランキングへ ご訪問ありがとうございます。
2009年01月25日
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九州の旅 むかしむかしはじめて九州へ行った時 若い男性がスケジュールをたてたので ひどい目に遭った 別府の宿を真夜中にでて夜行にのると たしか音楽のコンクールに出場する 団体のたぶん臨時便にのせられたらしかった 空席の一つも無いまま宮崎まで立ちどうし お腹がすいてはと食べたピーナッツがあたった その夜熱がでて下痢して翌日の桜島へいけず 宿で寝る羽目になった その時の写真はげっそりやつれて幽霊みたい うらめしい旅であった 人気blogランキングへ ご訪問ありがとうございます。
2008年10月17日
土佐の旅 むかしむかし俳句の友達と行きました 海岸で 珊瑚細工を売っていました 小さい たこやきの屋台みたいなところで 貝殻の展示館で美しい貝殻 を買いました 闘犬を育てているところもみました 土佐は闘犬がさかんなそうです この闘犬の置物をみると思い出します 人気blogランキングへ ご訪問ありがとうございます。
2008年10月14日
造船所の最後 あるひ突然県庁へ呼び出されて 岡田勢一さんの造船所へ勤めることになった 女子挺身隊の隊長にさせられて 隊員の名前も顔も分からないまま職場に配置された 小さい木で造る輸送艇が3,4艘ならんでいた 造船課の主任のYさんは忙しくてやつれ果てていた 課長の造っていた鉄の舟は赤さびて 大きな図体をさらして放置されていた ある日突然の空襲警報 たった一機の油脂焼夷弾によって 工員3名の犠牲者をだし 機械室とよばれていた1棟が焼かれた 心臓を失った工場は死んでしまった 人気blogランキングへ ご訪問ありがとうございます。
2008年10月13日
大学の助手の採用試験にいきました 数百人もの若い人が集まりました 多分十代くらいの男女でした 面接試験で数学の問題の解答を書かされました 数ヶ月後に再度募集があり 今度は知り合いの大学の教授にお願いをしておいて 願書を書いて机の上において寝ました その夜米軍のB29の空襲に焼かれて 住むむところも食べるものもなくなりました 人気blogランキングへ ご訪問ありがとうございます。
2008年10月12日
柿の思い出 隣町の石井町は昔柿の産地でした 戦争がはじまって男手が少なくなった農家へ 農繁期になると勤労奉仕に狩り出された 臨時の託児所のお手伝いにいった 大きいお釜でご飯を炊くのははじめてだった はじめにお湯を沸かしておいてから米を入れる 帰りに富有柿を買って帰った 春は麦刈りにいった 鎌の使い方を教えてもらって刈った 束にする方法が分からないので刈りっぱなしにして 風にばらけておじさんに迷惑をかけた おやつは「そらまめ」だった ひろびろとした畑で空気がおいしかった 人気blogランキングへ ご訪問ありがとうございます。
2008年10月11日
おばさんとミニ四国のこと 一人息子を病気でなくしたこともあっていつもやさしくしてくれました遊びに行くと季節の良いときはお四国参りに連れて行ってくれました眉山の中腹にミニの祠がならんでいましたほんもののお四国めぐりはなかなか誰でも行けないので手じかに小さい祠を88つくてありましたきんちゃくに一握りの米を入れていきますおやつも忘れないで彼女の好きな柿などをもっていきます半日ゆっくり骨休めをしますおばさんにとってはささやかながらも楽しみだったのでしょう 人気blogランキングへ ご訪問ありがとうございます。
2008年06月21日
夾竹桃と照ちゃん (2) 肋木は横木が10センチくらいの間隔で ぎっしりつまっているので、回る余地がない 頭が入るところが無いので、苦労して どうにかまわって下りることが出来た どうなることかとハラハラしながら見ていたわたしはほっとした。 彼女は何事にも積極的だった。 無鉄砲なところもあったようだがやさしかった。 プールの時間のとき、一緒に泳ごうといって 手をつないだがまだ泳ぎ方を知らないのに 足をあげたら二人ともぶくぶく沈んだ。 晩年は俳句誌の編集をしていた。 真面目できっちり仕事が出来た。 ハワイみやげの貝殻の首飾りが本箱にある 俳画の色紙も数枚しまってある 3年前に遠くへ行って帰ることはない。 人気blogランキングへ ご訪問ありがとうございます。
2008年06月20日
夾竹桃と照ちゃんのはなし (1) 昔、小学校の校庭に肋木(ろくぼく)という体育のどうぐがあった。 体育の授業の時、よじ登る訓練などしたように思う。 ある日曜日、いつものように照ちゃんと二人で遊びに行った。 肋木のそばには夾竹桃が大きく茂って、あたりはうすぐらかった。 そのころ皇后さまの作られたお歌として先生から教えていただいた 「夾竹桃の花咲けば蝶やとんぼがとんでくる」とくちずさみながら 蝶になったようにとびまわっていた。 その時突然照ちゃんは肋木にとりついて、鉄棒のように逆上がりをはじめた。 あしたへつづく 人気blogランキングへ ご訪問ありがとうございます。
2008年06月19日
入学試験のこと 父に連れられて小学校の入学試験に行きました むかしむかしのおはなしです 数を数えたり、メンタルテストとかいって 時計の絵に針がないのや、 にわとりにとさかがないのをみつけるテストです そのあと自動車の形をしたガラスのインクつぼをみて 問答をするのですが 「これはなにですか」 「じどうしゃ」 「これはインクつぼです」「?」 わたしはインクつぼなんて知らなかったのです そのあとは試験官のせんせいとわたしは 話がかみあわなくて、ちんぷんかんぷんでした 試験の途中で「おしっこ」にいったりしたので たぶん落第だろうと親は諦めていたようだったが 無事に入学できました 人気blogランキングへ ご訪問ありがとうございます。
2008年01月31日
九官鳥のはなし 朝ドラで九官鳥をみて思い出した 戦争末期の物が不自由になった頃のこと ご近所に歯医者さんがいて、 年配の先生は九官鳥を飼っていた 隣組のおばあさんが 「先生、九官鳥や飼うんで鶏を飼うたほうが 卵を産んでくれるから、ええんと違いませんか」 というと 先生は 「にわとりは芸がない」といわれたとか {このはなしいつかのせたかもしれない としがよるとおなじことをくりかえすようだ) , 人気blogランキングへ ご訪問ありがとうございます
2008年01月30日
まんじゅうものがたり わたしが住んでいたT市は戦争末期に 米軍の空爆に遭い焼け野が原になった ひと月半後終戦になったが 住む家もなく食料もない そのうち闇市が出来た 叔母はぬか饅頭を作って闇市で売るようになった むかし薬王寺の門前で売っていた饅頭を想い出したのだろう ひとびとは知人を頼って買出しに奔走した 麦の粒が数粒入ったお汁に行列した 糠で作った饅頭も包みを開くと瞬く間に売れた そうして小さいバラックだての家を作ることが出来た 人気blogランキングへ きょうはなぜか絵がはいりません またあしたにします
2008年01月29日
庭先のはなみずきの紅葉がうつくしい。 一日一日彩を深めて、触れるとはらりと落ちてしまう。 紅葉を描いていると、小学生の頃のことを思い出した。 その日県下の音楽の先生方が教室の廊下まで溢れていた。 担任の今川幹夫先生が音楽の研究授業をされていた。 その日のための準備が大変だった。落ち葉を拾ってきて 絵を描いて、落ち葉の歌をつくり、はじめて作曲をした。 先生はその後、大志を抱いて東京へいってしまわれた。 人気blogランキングへご訪問いただき有難うございます
2007年11月16日
百日紅の思い出 おばあさんの病気のお見舞いに 母につれられて毎日いったとき 公園の中を通り抜けて行く道に 百日紅の赤い花がいっぱい咲いていた 八月の暑い日だった その年の夏は特に暑かった 祖母は9月になるのを待たずなくなった 百日紅の花をみるとあの時のことを思い出す 人気blogランキングへ サポートありがとうございます
2007年08月13日
眉山は懐かしいふるさとの山です。 四国88ヶ所のミニ札所があります。新四国さんといって 徳島市民に親しまれてきました。小学生のころ、お休みに おばさんの家へいくと、待ちかねていたとばかりに 連れて行ってくれました。女学生になると、1年に何度か 全校生がつらなってのぼりました。忠霊塔?(忠魂碑)を建てるときは 白石をかついでのぼりました。 昭和20年7月4日未明、アメリカ空軍のB29の爆撃をうけて 激しい爆弾、焼夷弾の降ってくるなか、市民は逃げ惑って 眉山の茂みへかくれようと駆け上りました。 燃え盛る街を突っ切って吉野川へ逃げた人もいました。 公園の池にはいって亡くなった人もたくさんいました。 あのときから住み慣れたまちを追われてそのまま60年経ちました。 人気blogランキングへ クリックありがとうございます
2007年07月20日
ピンクの大きいカサブランカです。 わたしの顔よりも大きい花です。匂いが強くて 息をするとおなかの中までカサブランカになりそうです。 モーツアルトの音楽にカサブランカの香りはにあわないでしょうか。 こんど暇をみて、ゆっくりモーツアルトききましょう。 そしてカサブランカにも聞かせてあげましょう。 わたしが尊敬していた横浜の友人がモーツアルトの曲を 弾きたくてピアノを買いました。聞かせてもらわないうちに 病気で亡くなりました。わたしはレコードを買いました。 たぶん40年ほど昔のことでした。まだ聞いたことがありません。 人気blogランキングへ おねがいします THANK YOU
2007年07月19日
今日届いたお花はグラジオラス オレンジ色は15歳の少女のあこがれ 純白のブラウスを着た新任教師、北国の人 津田塾出身の英語の教師、きびしかった。 オラルメソウドとか、生徒たちはみんな迷子になった。 必死になって口真似をした。 むなしく1年が過ぎた 人気blogランキングへ
2007年07月10日
糖尿病はこわい 徳島県は糖尿病が毎年全国一位だそうだ。 原因はお米やおいもの食べすぎだという。 その分おかずの量がすくないらしい。 戦前は鶏肉や豚肉を食べた記憶がない。 肉屋に鶏肉やブタ肉は売ってなかったと思う。 焼け出されて疎開した親戚のお隣でお庭に豚を飼っていた。 蔵の高いところにある小窓から背伸びして見ていた。 ピンク色の豚の肌は美しかった。 それより忘れられないのは杏の実のおいしかったこと。 お隣に大きい杏の木があってときときおじさんがとってくれた。 30年後ようやく庭付きの家ができたので、一番に杏を植えた。
2007年06月23日
きょうはサトウハチロー記念館の開館記念日だそうです。 サトウハチロー作詞の懐かしい歌がテレビにつぎつぎでてきます。 「あかいりんごにくちびるよせてー」で思い出します。 県西部のI町の小学校の講堂は集まった人が溢れていました。 歌手の名前は思い出せませんが、昭和22~23年のころでした。 敗戦の何もかも不自由な暮らしの中で人々は戦争が終わった歓びと 民主主義に目覚めて、ささやかな希望を抱いていました。 人々の後ろでのびあがってみました。歌謡ショウだったのでしょうか? りんごの歌は皆に愛されて人々のこころを癒しました。
2007年05月23日
椿(つばき) 城山の裏道は、落ち葉をかきわけてよじ登り 落ち葉にのってすべりおりる、スリルを楽しむ 男の子たちの遊び場でした。 少し登ると大きな椿の木がありました。 まっかな椿の花が目に付きました。 低い枝を取ろうと近づいて、ふと足元を見ると 崖の下に青い川がながれていました。 あっ! どきりとして足がすくみました。 それっきり山へ行くのをやめました。 怖い思い出です。
2007年03月14日
三月十日昔は陸軍記念日と言う日があった。 わたしが小学生だったころ、城山をとりかこんで 紅白にわかれて、中学生や高校生が戦闘訓練をしていた。 そのあと、広場に集合して閲兵式?をした。寒かった。 雪の舞うときもあった。 鉄砲を担いで戦う戦争はなくなった。子供のお遊び のようなことをしていて、いざ戦争がはじまると 地面を這う戦争はできなくなった。そして負け戦の果て ピカドンの原子爆弾で終わりになった。 そしてなにもかもすっかりなくなってしまった。 戦後のあの悲惨なくらしを忘れない。 今日はアメリカ空軍の東京大空襲の記念日でもある。
2007年03月10日
CAMERAの思い出 一番初めに買ったのはオリンパスだった。 何度か失敗してうまく写せるようになった。 次に買ったのはあまり使わないのに シャッターの接触が悪くなって松山で 写したのは写ったり写らなかったり 友人が撮ったのはぱっちり写っていて 私が押したのは殆ど写っていなかった。 カメラやへ持っていくとボールペンで 電池の穴をこそこそとひっかいてくれた。 変な話だ。そのつぎのはまだ写るはずだが デジカメになったので引き出しの中に眠っている。 カメラは旅行の思い出につながる。 もう旅行に行くこともないのだが お花を写したり絵画の作品を写すのに必要だ。
2007年02月14日
短歌2首 踏み切りに立つ時見たる赫赫と 巨き夕陽を抱きて帰る 病床にふた夜添い寝の母の背を 撫でしこの掌の温もり今も S町の病院で母が亡くなって30年になります K町に新しく家をつくたのに入ることなく わたしが写した写真をみせただけでした。 そのひは日曜日でおひるごはんに魚の煮つけをつくって 食べさせてあげてそのあとトマトを口にいれると むしゃむしゃとたべてくれました。 つぎに薬をあげると、またむしゃむしゃと オブラートにつつんであるのに噛んでしまいました。 そのときもう意識が朦朧としていたのでしょう。
2006年12月16日
今日は信州から送られてきたといって 大きな、真っ赤な、おいしそうなりんごをいただいた。 終戦後すこし落ちついた頃、青森から りんごうりがきた。山峡の小さな町に 大きいスピーカーが鳴り響いて 街中がびっくりした。 りんごのうたが明るいメロデイーにのって 街中の人びとをひきつけた。 わたしは真っ赤なりんごです お国は遠いきたのくに りんご畑の晴れた日に 箱につめられきしゃぽっぽ 町の市場につきました 食べ物の自由に手に入らない時代に 嬉しい贈り物であった。
2006年12月09日
あっ! 光ってる! いっちゃんのプレゼントのビーズ細工 彼女がお絵かき教室へこなくなって5年になる ビーズの吊りものは今もきらりきらリと 光を放射している あのとき雅子様と愛子様の絵を描きました いっちゃんとの出会いと別れは夢のようだ お顔も忘れてしまったけれど きれいなビーズのペンダントは いつも神秘な光をはなっている
2006年11月09日
パットライス ひょんなことから、郵便受けに パットライスをみつけたよ。 わたしの子供の時にはまだなかった。 戦後白米が自由に手にはいるようになったのは 10年以上経っていただろう。 近所で「ポン」とか「パーん」とか大きい音がして 見にゆくと金属の重そうな筒から 白いパットライスがとびだしてくるのを おじさんが笊でうけていた。 米よりとうもろこしのほうが多かった。 とうもろこしと言えば戦後の配給で苦労した。 粒のままでは消化しないので、粉挽き機を買った。 卓にねじでとりつけて毎日とうもろこしを挽いた。 それで蒸しパンを作ってお弁当に持っていった。 帰りは消化不良で、ぱんぱんにふくれた おなかを抱えて苦しかった。決して忘れない。
2006年10月19日
桃の木物語 (下) ある日一人の男の子が父親に連れられて 田舎からやってきました。小学校でたばかりで 住み込みの仕事見習にきたのでした。 まだ遊びたい盛りの腕白小僧で 仕事の休みの時は近くの城山や 川へいっておもいきり羽を伸ばして遊び 故郷のことを恋しく思っていたでしょう。 桃の実が熟れ始めると得意の木登りで とってくれました。又屋根の上から 手を伸ばせば大きくておいしいのがとれます。 そんな平和な時が流れていたのに 彼が一人前に仕事を覚えて 独立した時平和が揺らぎ始めていました。 彼は突然満蒙開拓義勇軍に加わって 満州へいってしまったのでした。
2006年09月18日
桃の木物語 (上) ピンクと白の八重咲きの桃に 小さい果実が熟れてきました あの米軍のB29の空襲の日も 裏庭の一本の桃の木に 実がびっしり成っていました 熱気が残る焼け跡にはいると 真っ黒く焼かれた桃の実が ごろごろといっぱい落ちていました その光景は今でも目に焼きついています あの桃の木は小学一年生のころ 父と散歩にいった川の埋立地で 10センチくらいに芽生えた ばかりの幼い木をみつけて 持って帰って庭に植えたものでした それから20年 春になると 美しい花を楽しみ 秋には 熟れた果実を虫の幼虫と 分け合って食べました
2006年09月17日
りんどうの花を 始めて 見たのは女学生のとき 戦時中とて強行遠足? とかいって 足に豆が出来るほど歩く行事があった。 眉山一周ということで、徳島市からいえば 山の裏側に回った時 山すその道端にみつけて、みんな感激したことだった。 雅やかなというか気品があって形もよく 濃い紫色も魅力だった。 いまでは花屋にも夜店にもみられるが むかしは欲しくても買えなかった。 といえば花屋さんなどあったかしら?
2006年08月16日
父が好きだったトマト 昭和の始め頃、トマトがまだ珍しかった ピンク色で子供の頭ぐらいの大きさで 両手に乗せて、かぶりつくのです ボタボタとお汁をたらしながら 美味しそうに食べている父を みんな口をあけて見ているだけで だれも食べてみようとしません 珍しかったのです それに 青臭い匂いが好きになれなかったのです トマトを日本で作るようになったのは いつごろでしょうね
2006年07月24日
徳島の家では 毎年あさがおを植えていました 板塀にのぼらせて色とりどりのあさがおを 咲かせていました。 ままごとあそびのお店屋さんごっこで 色水をつくりました。 あさがおは早起きしないと見られません。 毎日飽きもしないでままごとをしました。 でも、いつも同じではありません。 知恵をしぼって新しい工夫をします。 ままごとだって友達と競争です。 新しい趣向をこらして 友達をうらやましがらせるのも 楽しみです。
2006年07月23日
金魚草は物静かな優しい花です ほがらかまっちゃんが作ったのです。 空気のきれいな山の畠で育ったせいか、 朱色の花が冴えざえと美しい。 この頃では派手な異国生まれの 花におされてきんぎょそうは寂しそうです。 むかし、公園に沢山咲いていたのを 覚えています。山吹やあやめの花壇と 並んでいました。日が暮れるのも忘れて 毎日毎日愛ちゃんと遊んでいました。 空襲の時から会えなくなりました。 愛ちゃんのお母さんのお里は美郷とか。 いま何処にいるのかなあ。
2006年07月20日
いつから海の日ができたの? 何をする日なの? 海へ泳ぎに行こうという日なの? 子供の頃沖の州の海水浴場へいった。 夏は店の仕事があまりないので毎日行った。 地引網を引き上げるのを手伝ったり ばか貝をとったり、父は浅瀬で座って 貝を掘るよりほかに遊びを知らなかったようだ。 ミシン仕事はお得意なのでテントを作ったり 魚の揚げ物を作ったり、けっこう 昭和のはじめの不況にもめげず 庶民のバカンスを 楽しんでいたのかもしれない。
2006年07月17日
7月4日は徳島大空襲の日です 焼い弾の束になって落ちる音 ざあーーーーというものすごい轟音 戦後10年たってもあの轟音は 時々夢にうなされて思い出すのだった。 あの日の地獄のような情景は忘れることはない。 でも、その後のくらしは大変だった。 思い出したくない哀しいことも。 みんな箱にしまって、今の幸せを感謝しよう。
2006年07月04日
夏休みになると 2階の勉強部屋の壁に 父がツエッペリンの飛行船の影絵を 写してくれた思い出。 助任橋を通りかかる自動車のライトが 北の窓からはいってくる。 窓の鴨居につるした厚紙を切り抜いて作った 飛行船の影が壁の上を動く。 川沿いの土手にある樹齢500年の 松並木が背景となって、見事であった。 昭和のはじめの頃のことで 一晩中待っても自動車は2,3台ぐらい しか通らなかった。 父はアイデアマンであった。
2006年07月02日
枇杷の思い出 父が外出中脳炎で倒れて入院した。 医師はなす術もなく、12日間 氷枕と氷嚢5こをあたまにのせて 母とわたしは毎日昼も夜も錐で氷を 割るのに大変だった。幸い7月で 果物やにいろいろ果物があふれていた。 意識がもうろうとしているのに バナナ、桃、枇杷と手当たり次第に食べた。 見舞いに来た人はみんなその豪快な食べっぷりに驚いた。 大丈夫これなら治りますと皆が太鼓判を押してかえった。 12日目にリヤカーに戸板を乗せて家へつれて帰った。 幸い良医にめぐりあって元気になった。 日米開戦前夜のことであった。
2006年06月25日
公園の思い出 米軍の空襲のあった7月4日の朝 公園には動物はいなかったのだろうか? 城山にたくさんいた五位鷺は どうしていたのだろう お猿の大きな家の金網に焼夷弾が いくつもひっかかって炎を上げていた 多分猿はいなかったのだろう 鳴き声を聞かなかったから 池では多くの人が亡くなったときいた 鶴やおしどりや亀はいなかったのか みんな私の幼い時の遊び友達だった
2006年06月11日
かぼちゃを煮ました きょうのかぼちゃはおいしい 四つに切られたかぼちゃは美しかった 皮のくろぐろと艶のある濃い緑 実の黄色が淡いレモンイエロウで 皮のみどりとの対比がすてきだ 子供の頃母が甘辛く煮付けて よく お弁当にいれてくれた この町にきて庭で作ったら 松の木のてっぺんで かぼちゃがなった ばかげたことをしたもんだ
2006年06月09日
お兄ちゃんと妹 初物のさくらんぼをいただき 仏様にお供えしました 妹は赤ちゃんの時 蜂に刺されて亡くなりました お兄ちゃんは4歳でした お母さんの話の中に住んでいる お兄ちゃんは活発な子でした 今ごろは公園でお母さんと さくらんぼを拾っているでしょう
2006年05月11日
たねちゃん 今年も薔薇が咲きました あなたにもらった ピンクの薔薇を 毎年5月になると 描いています 十代のあの頃にかえってごらん 5月の山の緑は美しかった うぐいすが谷へ降りてきて 歌をきかせてくれました 渓流の岸にピンクのつつじが しぶきに揺れていました ああー木綿麻川 (ゆうまがわ) 幼き日のあこがれのY先生を きっと思い出しているでしょう
2006年05月09日
昔の公園 わたしが遊んだ公園は 四角い芝生があって そのまんなかに大きな蘇鉄があり 竹を組んで囲っていました。 芝生が広いので、近所のこどもたちが よくドジボールをしていました。 あるひ、おとなりの愛ちゃんのおかーさんが 投げたボールがブスリととがった竹の先に 突き刺さりました。 一瞬みんなは固まってしまいました。 あの時の哀しさは忘れられません。 わたしの一番すきだったボールでした。
2006年04月18日
わたしが小学生の頃、気むつかし屋の叔父さんが むすかりの球根をくれました。小さい庭に植えて 紫の淋しい花が咲きました。およそ武骨なイメージの おじさんにはふさわしくない感じの贈り物でした。 でも、心の奥に優しさを秘めていたのでしょう。 今でも思い出す叔父さんのエピソードのひとつです。 今から70年も昔のことで、ムスカリは珍しい花 だったのでしょう。
2006年04月13日
山の春 家庭訪問で この時期 毎日 山道を歩いていた 谷をわたり 尾根を巡り 遥かな山並みを眺めながら うぐいすが人里近く降りてきて 透き通る声で 迎えてくれる 足元には いたどりや蕨が つんつんと 背伸びしている 樹木の若葉が いっせいに 萌え出ている なにか新しいことが 芽生えてきそうな 予感がする
2006年04月10日
古い手帳 30冊の古い手帳 汚れたもの 傷んだもの 新品みたいにきれいもの 暗緑色や黒表紙が多い 三八豪雪のとき 毎日大雪の記事が続く バス運休 タクシー代100円 通勤事情以外の記事は殆どない 山の分校勤務は ほんとうに大変だった
2006年04月09日
コメント(3)
お昼ね岩 幼い頃、夏になると、父と私は、城山の麓にある白いへんてこりんな岩の上に行って、お昼ねするのが日課だったそうです。戦後60年、公園の様子もすっかり変わりました。あのお昼寝の岩は、城山の麓から無くなったと思っていましたが、ほかの場所に移されているのを、ある時見つけました。へんてこりんな形だから見間違えることはないと思いますが、案外小さくて「よぼよぼじいさん」と言う感じがしました。60年も経っているから岩も年寄りになってあたりまえでしょう。こんど公園へ行ったら撫でてあげましょう。
2006年03月30日
白とピンクの桃の花が満開です。 桃の木には思い出があります。 小学生の頃、父と散歩していた助任川の 埋め立て地で見つけた、10センチくらいに のびた幼い桃の木を、掘って帰って庭に植えました。 たしか3年目に花をつけ、やがて毎年たくさん 実がなるようになりました。屋根の上から 熟れた実をちぎるのが楽しみでした。 どれもお先に虫がはいっていたけれど、 おいしかった。 そして十数年たちました。昭和20年7月 米軍の焼夷弾を浴びて無残に焼けてしまいました。 ピンポン玉くらいになった実が黒焦げになって たくさんころがっていました。 忘れられない光景です。
2006年03月27日
珊瑚 南の国の浜辺では 屋台店で 珊瑚細工を 売っていました 波の音を 背にききながら 取れたての魚を 買う気分で 紅いさんごのブローチを 胸にあててみました
2006年03月14日