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カテゴリ:タイガース背番号史
背番号27(その1) 背番号27の第1回目です NPBでは一軍登録選手の上限は2018年までは28名 2019年に29名になり 2020(令和2)年から31名になってます これはコロナ感染症対策の影響で増えてきたんだよね それにしても球団創設からしばらくの間は 監督を含めたチーム全体でこの人数に収まってしまうのよ コーチなんてものもいなかったし なので25番より大きな番号の人は少ないわ だから戦前は活躍した選手がほぼいない そういう中でタイガースに籍を置いていた選手なのであまり知られていない人が多いのね 今回は戦前にこの番号を着けた3名の選手を紹介するよ 松広金一 外野手 和歌山県出身だが大阪の浪速商業に進学している。浪商時代は左打の好打者として1933(昭和8)年の夏に5番打者で、1934(昭和9)年の選抜は4番で甲子園に出場している。 1936(昭和11)年、明治大学に入学するが長打がないという理由からあまり起用してもらえないことを不満として1年で中退し、1937(昭和12)年に大阪タイガースに入団している。背番号は「27」で、最初にこの番号を付けた選手となる。167センチ64キロの小柄な選手。 1年目の春季はわずか3試合の起用に終わり3打数1安打の数字が残る。秋季は6試合で8打数0安打1盗塁の成績だった。 翌1938(昭和13)年春季はたった1試合3打数2安打、秋季は11試合に出て28打数6安打1本塁打6打点と少し成長の跡が見られた。 1939(昭和14)年になると32試合66打数15安打3打点の記録を残すが病気がちとなり同年オフに退団してしまった。(病名不明) その後満州にわたって満州実業団でプレーしたと伝わっているが詳細は分からず、生死不明のまま現在に至っている。 通算成績は53試合108打数24安打12打点1本塁打、3盗塁12四球15三振、打率.222である。 比留木虎男(ひるきとらお)内野手(再掲) 松広引退のあと「27」は1年間空き番になる。次にこの番号を着けたのは比留木虎男だが、すでに背番号「21」で紹介済みのため全文を再掲する。 長崎県出身で長崎商業学校時代には1933(昭和8)年の選抜大会で甲子園を経験している。当時はセンターを守っていた。1936(昭和11)年11月にタイガースと契約。 1937(昭和12)年が1年目のシーズンだが、当初背番号は無く、小島が移籍した春季リーグ途中時に「21」を継承し、おもにサードで起用されている。この年は春季・秋季合わせて8試合に出たが14打数0安打1打点でヒットは出なかった。 1938(昭和13)年1月早々に応召すると約3年間軍隊生活をおくる。 1940(昭和15)年の秋に復帰して7試合13打数2安打2打点、翌1941(昭和16)年には背番号を「27」に変えたが17試合で29打数3安打0打点に終わって引退しているので「27」は1年間着けただけだった。 その後、高校野球の指導者に転じ、監督として母校長崎商業を率いて1952(昭和27)年の夏選手権、1953(昭和28)年の春選抜に甲子園出場を果たした。 プロ通算は実働3年32試合56打数5安打3打点、1盗塁5四球9三振、打率.089である。 森田明義 投手・外野手・内野手 香川県生まれで坂出商業校の出身。1938(昭和13)年の夏の甲子園に出場し、初戦で掛川中を完封したが2回戦で敗退している。 比留木の引退と入れ替わるように翌年1942(昭和17)年にタイガースに入団しており背番号「27」を継承したが、1年目は出場機会がなかった。 続く1943(昭和18)年も試合での起用は無く、1944(昭和19)年にようやく1試合に登板したのがプロでの唯一のマウンド。しかもわずか1回1/3に過ぎず、無失点ではあるが勝敗は関係なかった。 逆に3年目は野手として15試合に出ており、外野を11試合、一塁を3試合守った。打撃成績は15試合41打数9安打3打点1三振、打率.220。 戦争が激化し職業野球も中止に追い込まれていく中、在籍3年で引退し、戦後は実業団の四国鉄道管理局でプレーした。 まとめ 「27」という番号は当時のタイガースでは一番大きいほうなのよね だからこの3名は今で言うと育成選手扱いのような感じだったんだとおもう 当時は主力選手が兵役で抜かれてしまうことが多くていつも選手不足に悩まされていたわけ しかも大学野球や実業団のほうが権威があった時代だしね そういう状況だからとにかく数合わせでも選手が欲しくて たいして期待してない人でも入れてたっていう事情もあったんじゃないかな?とおもいますね 当然ですが画像資料が発見できたのは比留木虎男さんだけでした 背番号27―2につづく お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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