ひっさしぶりの日記。
ひさびさに日記を。明日から丸の内勤務。さよなら、赤坂のビルにあったカフェテリア、おいしい豆乳ラテ、おいしいベーグル・・・・・・坂道・・乗り換え・・・階段・・・ああ、やっぱり明日から丸の内でいいや。(乗り換えなし、坂道もなし)丸の内。ワタシ、高校のとき、何か高校の部活のイベントにでかけて、夜行列車に乗って、朝、東京駅におりて、しみじみしながら、ここで働くことになるだろうなあっとなんとなく思った。すっきりした気持ちがした。光るようなわくわくした気持ち。あれから、10年もたってるんだなあ。そういう「なんとなく」の予感ってケッコウ的中するので、大事にしていくといいんだなあ。「これは・・くる!」みたいな予感ってけっこう力が入っているのではずれることが多い。なにごとも力の入れすぎはよくないのだなあ。力を入れすぎることと、一生懸命死ぬほどやるのはこれまた違うように思う。はっきりいって、「感傷にひたる」文章、作品くらいみんな失敗しているものは他にないんだけど(あ、ある、それは「見た夢」の表現だ)、でも、いくらでも書きたい、どれだけ楽しい思い出を持ってるか、時間をぐんにゃりまげて、そのときのことを思い出すこと、思い出す楽しさ、妙な感触、そういうことを全部書きたい、それで、それを読んだ人に、「そうだそうだ、そうなんだよな、こういう気持ち」というふうに一緒に体感してほしい、というふうに思う。でも、みんな失敗するんだよな。なんでだろう。けっこうプロの人も失敗しているのもみかける。それはきっとエッチしているのと同じくらいに私的なものだからだろう。どんどん話はずれるが、見世物にするとしたら、1人エッチよりもふたりエッチのほうが失敗するように思う(これはもちろん、AVの話ではなくて)、というのは、ふたりでするエッチはどうも、客観的にできないからだ。1人エッチを見せるほうが緊張するし、どうも客観的になる気がする。なんていうのかなあ、表現で「ふたりエッチ」をやると絶対に失敗する。それはたぶん、内輪ウケの世界だからかもしれない。書きたいこと、全然まとまらない、まとめろよ、何度もリライトすればよいのにって思うけど、どんどんずっと書いていたいっておもう、これこそ、客観性のなさを表現しているな。ところで、世界にたくさん表現する人はいて、二種類にわけられると思うんだけど、まさに、「自己表現」をしたい人と、その他大勢か、どちらかなような気がする。コンテンポラリーダンスをみにいっていっぱいわかりやすい例を見た・・ように思う。私はここにいる、私をみてくれえ、ということを言うためにダンスをやっている人ってわりと多いように見えたんだけど、もちろんそれでもよくて、多くの舞台にたつひとや芸能人とよばれるひとは、「私をみてくれえ」と言う気持ちがないと絶対にできない。でも、表現をしたい人ってほかにも種類があって、「私をみてくれえ」じゃないタイプの人だってうんと多いと思うけど、じゃあ、それってどんな人のことなんだろう。