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シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

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2024年08月29日
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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
先日、TVで、「奈良タイム」なるものを紹介していた。最近、巷では、大河ドラマの影響もあり、奈良ブームが起こっているようである。その番組では「奈良タイム」を、千年の悠久の時間までを見通す先見力として紹介していた。国家100年の大計といわれるが、奈良時代では、千年の大計で仕事をしていたというのだから驚きである。

奈良タイムとは、時間のスパンが、現代の都会とは違い、千年先までを見通して、なんか面白そうとか、儲かりそうとかの、一時的な欲望から突き動かされるのではなく、千年のなかで、本当に重要な意味をもつ仕事なのか、色々多角的に吟味して、皆が納得するまで、話し合って進む、合議制のようである。現代人のような数時間後や、数年後しか見通さずに、すぐに結果を求め、判断しがちな、日々時間に追われて暮らす、都会型の、せっかちな体質には、全く合わない、悠長な感覚といえるかもしれない。

さて、前回はハンマーシュタインの軍隊の組織論から、資本主義のブルシットジョブ(牛糞仕事)の弊害を経て、お釈迦さんの8種類の友人像を紹介したが、今回は、利口と愚かさの違いについて、改めて考えてみる。利口と愚かさの違いを簡単にいえば、無駄な事をしない、つまり、ブルシットジョブをつくらないし、しないといえるだろう。

ハンマーの組織論で、問題とされた、愚かな働き者とは、無駄なブルシットジョブをつくる人といえる。そもそも無駄なものとは何か? 老子の説く無為自然から考えてみる。

小さな無理や無駄を積み重ねてはいませんか?(『老子』二十四章)|凪平コウ@古典・歴史愛好家 (note.com)

変なプライドは捨てて、素朴な気持ちで自分らしさを大事にしよう(『老子』二十四章)|凪平コウ@古典・歴史愛好家 (note.com)

老子第二十四章 : 前崎鼎之 (exblog.jp)

老子 (coocan.jp)

https://blog.mage8.com/roushi-24

(注意;釣り広告が出る場合もある。出たら、タスクマネージャーで、タスク=ブラウザを終了させる。こういう無駄な広告も資本主義の欠点)
以下は上記のサイトからの抜粋

             ☆       ☆       ☆

企(つまだ)つ者は立たず、跨(また)ぐ者は行かず。自ら見るものは明らかならず、自ら是とする者は彰われず。自ら伐(ほこ)る者は功無く、自ら矜(ほこ)る者は長(ひさ)しからず。其の道に在る也、余食、贅行と曰う。物或いは之を悪(にく)む。故に有道者は処(お)らず。

 つま先で立つ者はずっと立っては居られず、大股で歩く者は遠くまで行けない。自ら見識有るものとする者がものごとがよく見えず、みずから正しいとする者は是非が彰らかにできない。みずから功を誇る者は功がなくなり、みずから才知を誇る者は長つづきしない。
 これらは、道の観点からいうと、余った食べもの、よけいな降るまいという。人々はだれでもそれらが嫌いだ。だから、道を身につけた者は、そんなことはしないのだ。

 背伸びをしようと爪先立ちをしている者は長く立っていられない。早く歩こうと大股で歩く者は長く歩いていられない。自分が目立とうとする者は誰からも注目されないし、自分の意見を押し付ける様な者は人から認められない。自分の功績を自慢する様な者は人から称えられないし、この様な者は長続きしない。こういう人間の行為を「道」の観点から言うと「余計な食べ物、余計な振る舞い」と言うのである。誰もがお腹一杯食べた後にさらに食べたいと思わない様に、「道」を知った人間はそんな事はしないものだ。

             ☆       ☆      ☆

以上のサイトから、要約すると、長い目でみれば、自分らしく生きるのが、もっとも無為自然の、輪廻転生の、カルマの法則に叶う、と老子は説いているようである。だから、利口な人は、自分を知っているのである。自分を知っているとは、人智学でいえば、自分の前世の行為を知っていることで、自分がなぜ生まれ、どのような課題を前世から持ち越して、その課題を克服するべきか、を理解しているから、自分の人生を真剣に生き、精進するので、余計な、無駄なことはしないわけなんである。

だから、愚かな人とは、一言でいえば、自分を知らない、といえるかもしれない。自分を知らないからといって、自分ばかりをみていても、自分はかえってわからなくなる。周囲がみえ、周囲との人間関係やつながりがみえるから、そのつながりを通じて、自分がそのなかから、浮かび上がってくる。

例えば、勝海舟が米国視察後に、幕府の上司に、米国との違いを聞かれ、ほとんど国としての違いはないが、唯一の違いは、米国では、利口な人が要職に就いている、といって、日本の縁故主義を暗に否定したので、「控えよ」、と怒られたエピソードを披露している。幕府が腐敗したのは縁故主義だからである。

古き縁故主義に固執していれば、新しい自分が開拓できないばかりか、旧来の仕来りに束縛されてしまい、新しい関係がつくれずに、身動きがとれなくなる。だから、メリケンのペルリに開港しろ、と迫られ、国内の身内ばかりで固まらずに、新しく西洋とつながれ、といわれ、西洋の当時の象徴の、黒船を見せびらかせられ、田舎者扱いされる。

勝海舟は、幕閣にいてその事情をよく知り、蘭学者として、西洋の事情を薩摩の島津斉彬から聞き知っていたから、日本の分裂を免れるために、大政奉還などを画策し、幕府を無血開城で野党にして、薩長に味方したわけである。しかし、ただの野党ではなく、いつでも薩長政権に代われる野党にしたわけで、大局がみえているからでき、伊藤博文と政局を巡って、大隈重信を陰で支援し、よく対立したようだった。

古来の日本が縁故主義だったのは、霊能力のお蔭である。霊能力が国の先見力を保障したので、高次の宇宙人の神の命に従い、国家をつくったので、神国ニッポンといわれたわけで、陰陽師も霊能力を駆使して、天体の配置に従って、政治を主導してきたわけで、聖徳太子らにより仏教を霊能力養成の学校としたわけだが、段々と衰退してきて、形骸化して、カリユガの時代になって、唯物化し、権威化して、ついには江戸幕末には、勝海舟が嘆くような腐敗堕落した縁故主義の政治体制になってしまった。

そして、現代の日本人といえば、過労死という言葉が、日本人の不名誉として、エコノミックアニマルと同じように、世界にも悪徳として知られているのだが、日本人のなかには勘違いして、この二語を長所かのように錯覚している輩がいる。「死ぬまで働く経済動物」とは、欧米人の観点からすれば、ゾンビのような危険な存在で、愚かな働き者なのである。このような日本人の悪徳が、米国をして、原爆を二発落とさしめるのを正当化させている反面を見逃してはならない。

日本人は本来の日本人らしさを忘れて、欧米化し過ぎて、欧米人よりも欧米化しようと猛進しすぎて、まるで機械のような、ゾンビと化してしまったようである。それは、このブログのコメントでお馴染みな、毛利夢海さんに紹介された付喪神のようである。

付喪神 - Wikipedia


付喪神とは、もともとは、物質だったものが、人間に使われることで、魂を得て、幽霊や妖怪になることである。現代的にいえば、ロボットや人工知能のAIであろう。これら無駄なものをつくり、人間を過労死に導き、エコノミックアニマルにするのは、悪魔たちの誘惑にあるのがわかる。物欲という一時の餌に釣られて、無駄なことをしてしまうのが、人間のエゴである。

エゴは、誇大宣伝のようなもので、前回で、お釈迦さんの8種類の人物像でも紹介したが、悪友の4種類に分類される。すなわち、自分ばかり取っていく人。口先だけの人。甘言を語る人。遊蕩の人である。いわば無用の人ともいえるわけなのだが、では、このような悪人には救いがないのか、といえば、老子の無用の用や、親鸞の悪人正機説でもわかるように、このような悪人が自覚し、自ら善導すれば善人になれるわけである。

老子『無用の用』原文・書き下し文・現代語訳 - フロンティア古典教室 (frkoten.jp)

老子 第十一章 有の以って利を為すは、無の以って用を為せばなり | ちょんまげ英語日誌 (mage8.com)

悪人正機 - Wikipedia

現代語訳
車輪というものは三十本の輻(や)が真ん中の轂(こしき)に集まって出来ている。その轂に車軸を通す穴があいているからこそ車輪としての用を為すのだ。器を作るときには粘土をこねて作る。その器に何もない空間があってこそ器としての用を為すのだ。戸や窓をくりぬいて家は出来ている。その家の何もない空間こそが家としての用を為しているのだ。だから何かが「有る」という事で利益が得られるのは、「無い」という事が影でその効用を発揮しているからなのだ。

             ☆       ☆      ☆

このような老子の不用の用と、悪人正機を要約すれば、無駄を無駄とわかれば無駄でないことになり、悪を悪とわかれば、悪ではないことになる。なんだか、言葉遊びにみえるが、老子の言いたいことを要約すれば、陰と陽の二元性を説いている。二元性を物理的にいえば、時間と空間で、無も有も、時間と空間の、目には見えない陰の働きにより、目に見える陽の、現象や出来事が起こるわけなんである。

だから、この二元性の働きを理解して、自分を精神的に高めるのが、自分らしく生きることで、真の善導なのである。自分に無いものをやろうとしても無駄だが、その無駄から、本当の自分がわかる。自分がやりたい仕事がないというのは、自分がみつかっていないからで、自分に向いた仕事がないのは、自分をみつける鏡がないからである。自分がどういう人物になりたいのか、自分を映す鏡をみつけることが肝要である。

その自分とは、単なる自己満足や、自己顕示欲ではダメで、自分に常に向いたエゴの我儘で、内向きのものでは自意識過剰な天狗なわけで、外に向いた自分と、内外のバランスがとれていないと、自分らしい自分の、純粋な無為自然にならない。自惚れの無い自分の姿をみつけるのが、ありのままの自分の人生のわけなんだが、これがなかなか困難な道なわけなんだよね。

一度や二度の人生ではわからない。シュタイナーによると、現代人のほとんどが、キリスト降臨から、3、4回の転生を経て、現世に至っている、というのだから、キリストと出逢うには、自分の前世から、3、4回の前世まで霊視できないといけないわけで、今生だけでなく、後、3,4回の人生を生きて、キリストのように善行し、自分を純化する経験を積まないといけない、と見積もれるわけなんである。

キリスト降臨が約2千年前だから、奈良タイムの丁度2倍の先見力=霊視力が必要となるわけなんだよなぁ。非常に難儀な話だよね。





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Last updated  2024年08月29日 15時56分31秒
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