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テーマ:カウンターの内側から(7)
カテゴリ:酒処「和酌和酌」
陽子さんは、週に2、3回は店に来てくれる常連さん。彼女はだいたい一人で訪れる。ふくよかな体型と平安美人といった趣きの顔立ち、名前のとおりの太陽のような明るい女性だ。きれいな声で、他のお客様からリクエストがくるほど歌がうまい。カラオケ好きとものおじせず誰とでも打ち解ける明るい性格で、楽しいお酒を飲む人だ。
近所に住んでいてご主人は公務員、お子さんが二人いる専業主婦。私が知っている彼女についての情報は、こんなものだ。もうお子さんも大きくなったので、お母さんは用なしなのよと彼女は言う。陽子さんは、店に私と二人きりの時には、よくご主人の愚痴を言った。真面目一筋、仕事仕事の堅物で、口も重い、面白味のない人だと言う。たまの休みには家でゴロゴロ、「お夕飯は何が食べたい?」と聞いても、答えは「何でもいい」。文句を言わないかわりに、積極的に美味しいとも言わない。「あの人にとっての私は、家のタンスを眺めるのと同じようなものなのよ」が、彼女の口癖だった。真面目で仕事熱心、ましてや公務員なんて、私にしてみればうらやましいかぎりだ。そう言うと、「ちっともいいことないわよ。このまま女の盛りもすぎて、年をとるのかと思うと悲しくなるわ。もっと人生は楽しいものじゃないのかしら。ママはいいわね。毎日楽しそうで」との答え。お互いに隣りの芝生は青く見えるのねと、笑った。 週に1度くらい店に来てくれる高瀬さんという男性客がいる。彼は40代後半くらいで、物静かな大人の男という雰囲気。聞き上手で、彼と話していると全て受けとめてもらえそうな気がしてくる。どんな話題でも、にこやかに受け答えをし、控え目に自分の意見をしっかりと話す。お酒も強く、決して乱れずきれいに飲む。カウンターで隣り合わせになった人ともそれなりに話を合わせ、人をイヤな気分にさせることもない。無口だけれど暗くはなく、下ネタにもそれなりに対応し、ユーモアもある。お店にとっては、上等のお客様だ。 ある日、陽子さんが若い男性を連れて店にやってきた。彼がトイレに立った時に、陽子さんが私に顔を寄せて言った。「彼ね、恋人なの。私をとても大切にしてくれて、楽しい人よ」私は、そんなこともあるか、と思ったが、若いのになんだか冴えない人だなぁなんて、勝手なことを考えていた。話をしていてもはっきりせず、たまに冗談を言うが、ちょっとさむい。陽子さんは大受けだ。ふ~ん、恋をしてるってことか...まぁ、大人だし、私がどうこう言うこともないか。その後陽子さんは、必ず彼と同伴で現れるようになる。 それから間もなく陽子さんは家を出た。話を聞いてみると、「私は自由になる。飛ぶんだ」と言う。一人の女性として、ただの専業主婦ではなく、自分の世界をもち自立した大人の女になるんだということらしい。落ち着いた家庭があり、順調に成長している子供に恵まれ、仕事をしなくても経済的に困らない環境にいる彼女が、別の世界を見たい、自分の可能性を試したいということなのだろう。その気持ちはわからないでもなかったが、なにも家を出る必要はないだろうと私が言うと、旦那様のもとにいれば自立は叶わない、もう仕事も決めたし引越しも済んだと言う。「ご主人がよく納得したね」と聞くと、「あの人に私を引きとめる資格はないわ」。彼女は幸せそうに微笑みながら「彼とも自由に会えるしね」と言った。要するに、ご主人は陽子さんをタンスとしか思わないけれど、彼は一人の女性として尊重し大切にしてくれる、だったら選ぶのは決まっていると言うのだ。彼女は離婚し、その後は店には来なくなった。 さて、高瀬さんだが、珍しくオープンの時間に店に訪れた。いつものようにビールを飲みながら、話をしていると、「ママは本は読むの?」と聞く。「ええ、本を読むのは好きよ」と答えると、「森瑶子って作家、知ってる?」とさらに聞く。私は垢抜けたオシャレな彼女の小説の大ファンだったが、高瀬さんの口から森瑶子の名前が出たのが意外だった。高瀬さんは「これは読んだ?」と一冊の本をカウンターの上に置いた。『マディソン郡の橋』ベストセラーになった話題の本だったが、私は未読だった。彼はよかったら読んでみるといいよと本を私の方に押し出した。 森瑶子と『マディソン郡の橋』、全く関連がない。彼がボツボツと話しだした。「女房が森瑶子のファンでね。俺はまったく知らないんだけど...それにこの『マディソン郡の橋』、これも好きだと言うんだ」。めったに自分のことを話題にしない人なのでちょっと驚いたが、「奥さん、読書家なんだねぇ。ステキな恋愛小説が好きなのね」と私は言った。 「女房が家を出ていったんだ」私の言葉の終わりと彼の言葉がかぶった。「えっ?」 聞いてみると、これらの小説を高瀬さんに見せ、私は飛ぶのよと言って家を出たらしい。「私は飛ぶ?」...「もしかして、高瀬さんの奥さんって陽子さん?」思ってもみない展開だった。 さらに彼の話は続き、家を出るにあたって、アパートを借り家財道具をそろえ、引越し屋を頼むお金は、全て高瀬さんが負担したとのこと。高瀬さんにとってみれば、自分の女房がそんなことを考えていたとは頭の隅にもなかった。「申し訳ないことをしたのかもしれないな」と自重気味に笑った彼だが、せめてもの罪滅ぼしか免罪符のつもりでお金を出したのかもしれない。自立すると言った陽子さんの顔が頭をかすめた。 それから後も、彼は店のいい常連さんで居続けてくれた。陽子さんの噂が風にのって聞こえてくることもあった。仕事が長続きせず、あちこちを転々とし、離婚して間もなく恋人との関係も終ったらしい。新しい恋を見つけたのかどうか、そのうち噂も聞かなくなっていった。 高瀬さんはといえば、下の子が成人し、就職と同時に一人暮らしを始めたのをきっかけに家を人に貸し、職場の近くにマンションを購入、引っ越していった。彼の友人からの情報によると、ステキな女性と知り合い再婚したそうだ。子供の手が離れ、仕事上でも順当に出世し、きれいな奥さんと二人、海外旅行に出掛けたり、高級レストランで食事を楽しむような生活を送っているということだ。 同じ事の繰り返しの中で、専業主婦に飽き飽きし、飛べるかもしれないと別世界を求めていった陽子さん。思いもかけずに女房に捨てられ、自重気味に笑っていたが、新生活を手に入れた高瀬さん。いったいどちらが幸せになったのだろう。 毎日の小さな幸せに気づかず、足元を見ることを忘れて、一足飛びに違う世界に行ってしまった彼女だが、夢に見ていたような生活を送ることができたのだろうか。自立すると言いながら、別れる旦那様に生活の基盤を作るお金を出してもらっていたという事実。バカだと一蹴してしまうのは簡単だが、なんだか切ない気持ちになった。高瀬さんは本当に、陽子さんをタンスのように見ていたのだろうか? 同じ生活をしていても、それを幸せと感じるか不幸と感じるか、選ぶのは自分だ。すべて自分の責任だ。時には、人のせいにしたくなることも、環境のせいにしたくなることもある。それでも、選んでいるのは自分なんだという覚悟をもっていれば、幸せはいつだってすぐそばにあるものだ。見失わないように、天使の羽音を聞き逃さないように、幸せに対するアンテナを敏感にしておかなければと思ったのだった。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 【賢人訓より】 《和光同塵》...わこうどうじん 光(こう)は才能。塵(じん)はちり、世間一般の意味。 光輝くような才能があってもこれを内に秘め、ちりのように目立たなく生きたい。そう生きてこそ、やがてその光である才能は認められる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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