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テーマ:ドライブ・小旅行(1746)
カテゴリ:羽駈羽駈旅行記
鶴ヶ城から見る会津磐梯山 22日から会津若松で「会津まつり」が開催された。昨日23日、ちょっとハードではあったけれど、日帰りで会津若松まで出かけてきた。走行距離450km。テーマにぴったりのドライブ&小旅行だ。 朝6時過ぎに出発。一路東北道を北上、磐越道を経て一気に会津若松へ。会津藩ゆかりの行列が、9時半に鶴ヶ城を出陣するということで急いだけれど、出陣式には間に合わず、鶴ヶ城前の路上にてしばし待つことにした。 雨という予報を見事に裏切り、雲が多いものの青空が広がり上々のお天気。沿道には徐々に人が増えていき、待つこと小1時間。パトカーに先導された行列が鶴ヶ城を出てきた。顔を赤く塗った奴たちを先頭に、次々と仮装に身を包んだ行列が通りすぎる。 松平容保公 幕末、「徳川家への忠誠」を貫き通したために、逆賊の汚名をきせられ、会津での孤立無援のろう城の末、官軍の軍門にくだった松平容保。28歳の時に京都守護職に任ぜられ、新撰組(当時「浪士組」)との運命の出会いとなる。新撰組の「尽忠報国」の志と、連綿と受け継がれてきた会津の士道「忠義」が、互いに強い絆となっていたのだろう。 斬首された近藤勇の戒名を容保公からいただいたり、郡山では土方歳三と白虎隊は親交があったといわれているほど、会津藩と新撰組の関わりは深い。容保公は、晩年日光東照宮の宮司となり、幕末での一切を一言も語らなかったという。徳川家康を奉祀した東照宮の宮司として生きた容保公は、結果的に「徳川家への忠誠」を通したんじゃないだろうか。 公開されている容保公の写真は、少年のようなお顔をしている。激動の時代の、その渦中に生きた彼もまた、自分の信念を貫いた立派な大人の男だったのだろう。 さて、いよいよ新撰組の行列である。「新撰組」と書かれたひときわ長い幟の後には、大河ドラマ「新撰組」で副長土方歳三を演じた“山本耕史”さんがゲストとして登場。歓声とカメラの列に笑顔で手を振る彼は、うっとりと見惚れるほどのいい男だった♪ 私は我を忘れて彼のあとを追っかけ、何度もシャッターを押したが、興奮していたのと走りながらの撮影のために、何枚も撮ったはずの写真は、無残なものだった(><) ただのミーハーとなりさがった私をお笑いください(^^;) なんとか撮れたものを掲載。 ステキな山本耕史さんの後には、新撰組の行列が続く。浅葱色の羽織をまとった隊士たちは、新撰組全盛期を思わせるように、誇り高い気概を感じさせていた。 会津藩士のご家来衆や鉄砲隊に引き続き、白虎隊がやってきた。白い装束に身を包んだ彼らは、実際は十代の若者たちだったが、ちょっと大人の白虎隊。20名の悲惨な最期を知っているだけに、行列を眺める私の心も少しざわつく。まつりの高揚した空気の中に、若干の静粛な雰囲気が漂った。 行列を見送った後、鶴ヶ城へ。石垣は当時のものがそのまま残されていて、立派なお城だったことを思わせる。歴代の会津藩主や城の変遷、会津の歴史、江戸時代からの町の産業など、ここに来れば会津の歩んできた道を理解できる。白虎隊の肖像画も展示されていて、一日に何度か「白虎隊演舞」を見ることもできる。 鶴ヶ城の入口にある茶屋で、遅い昼食をとった。「会津ラーメン」。近くの喜多方ラーメンや佐野ラーメンに似た、あっさりとしたスープに縮れ麺の美味しいラーメンだった。 ちょうど2度目の行列が鶴ヶ城に戻ってきた。再度、山本耕史さんを拝もうと、またもやひとしきりミーハーの顔になった私。いい男は何度見てもいいねえ♪ 気持を切り替えて飯盛山へ。白虎隊19名の最期の地となった場所へと向かう。長い階段を息を切らしながら登った頂上の広場には、彼らの墓と慰霊碑がたち、たくさんの人が線香を手向け手を合わす。 広場を横切り少し下ったあたりに、20名が自刃した場所があり、手をかざして鶴ヶ城を見つめる隊士の像が建っている。遥か遠く、小さな鶴ヶ城を見ることができるが、城の周りの屋敷が炎上していたのなら、城が燃えていると勘違いしそうな景色だ。絶望感でいっぱいになった若者たちが、自らの命を散らした場所だと思うだけで、胸が締めつけられる。 ただ一人、命を助けられた飯沼貞吉さんの墓も、仲間の墓のすぐそばにあるが、ここに分骨され墓が建てられたのは、なんと昭和32年だというから驚きだ。彼が生残ったことで、白虎隊の最期の様子がしっかりと後世に伝えられたにもかかわらず、「一人だけ命を長らえた恥さらし」という様々な方面からの無言の圧力が、彼を会津に帰さなかったのだという。ムッソリーニに「世界的武士道の亀鑑」と言わせた白虎隊。彼が生きていたからこその隊士たちへの賞賛だろう。 少し仲間とは離れた場所で、ひっそりと建つ飯沼氏の墓。没後26年も経ってから、やっと落ち着いて懐かしい故郷で、仲間たちのそばに眠ることができたのだ。 この飯盛山が、白虎隊士たちの子供の頃の遊び場であったということは、少しは慰めになるのだろうか。 会津には初めて訪れたが、山々に囲まれた静かな街だ。歴史を感じさせる雰囲気がそこここにあり、一日では堪能できる所ではなさそうである。時間の関係で、温泉にも入れなかったし、喜多方へも行けなかった。大内宿へも足を延ばそうと思っていたのにそれも叶わなかった。日帰りの会津行にしては、まつりも見られたし、充分だったのかもしれない。老舗の酒蔵で「宮泉」という酒をお土産に買った。 最後に、松平容保公が白虎隊を詠んだ歌を紹介しよう。 「幾人の涙は石にそそぐともその名は世に朽ちじとぞ思ふ」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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