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2006.02.23
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テーマ:YOGA(39)
カテゴリ:YOGA
I came across an interesting essay of Mr. Haruji on the other dayこないだハルジさんの日記を読んでいたら、とても興味深い考察があった。

彼が知人の葬儀で死体(あ、遺体というのか?)と対面している時に感じた”This familiar body of her is only a empty container after her soul left” 「外見は見慣れた彼女に他ならないが、これは魂というエネルギーが去った抜殻でしかない」という実感と、これまで常々自分の肉体は単なる「マシン」だと感じてきたという独白。

ワタシは深く同意すると同時に、結局程度の差こそあれ、これが私達の一般的な死生観というか世界観というか、まぁ、いわゆる哲学なんだな、とシミジミ思いました。

あ、ちなみに哲学というのは「過去の偉人の思想を学ぶこと」ではなくて、個人、共同体、世界、時空を超えたコスミックレベル・・・それぞれの視点における「生と死」、つまり「始まりと終わり」の捉え方というか信条みたいなもので、それは死んだ文字の羅列ではなく、生き生きとした「存在」する思想として私達が常日頃持ち合わせている「べき」ものなのではないかと、ワタシはそう思ってます。


ま、さておき、ワタシも実は自分のカラダが単なる「入れ物=容器」としか捕らえられない傾向が強く、時折身体的感覚を伴う発作(=幻覚)を引き起こすこともあり、その程度が通常よりも若干大きいのかな、と思うようになって久しい。具体的にどういうことかというと、怒り・恐怖・快楽・痛みなどが極限に達した時の一種の麻痺感覚を皆さん思い起こしてください。

たとえば、自分のセンターは極限の感情に支配されそれを強く強く感じているのに、この肉体自体は遠く遠くにあるような感覚。

たとえば、凄まじいドラマの真っ只中にいるというのに、その自分をどこか遠い場所で醒めて見つめているような感覚。

たとえば、眠りに落ちる直前の魂が肉体を離脱して天井へ昇っていくような感覚。

もっと現実味のある例だと、ムチャクチャ激怒して殴りあいのケンカをしている時って痛みを忘れちゃうよね?そんな感じ。

これらは過度な集中によって起こる一種の感覚遮断なんだと思いますが、これが「何かが起きた時」の異例時だけではなく、常日頃から肉体感覚を伴い自分を支配しているのが私個人的なパターンです。別の言い方をすれば「あっち側へイキやすい体質」というか、脳内のスイッチ・オン&オフが簡単にできちゃう体質ってコトなんでしょうね。

言い換えると「ねぇねぇみんな、なにがそんなに楽しいの?ワタシも仲間に入れてよー!」と周囲にダタっ子し続けては、結局なーんにも実感持てず、「遠い、遠い、遠いよなー、あーあ」そんな繰り返し。そそして時折それがしっくりこなくなって、やたらと虚無やら憂愁やらに覆われ、なにもかもが味けない茶番に見えてくる精神的大恐慌もあったりで、まぁ退屈な日々のスパイスとしては趣き深いことこの上ございません。


ところで、ヨガを始めたのは、実は老化とストレスにより「肉体が制御不能」に陥り、それをナントカしなきゃなー、の対症療法だった、ババクサ、ブリクサ。Oh I wish I could have a body meets soul…とデスキャブみたいなボヤキが根底にあったっつーワケで、ちっとも高尚でも哲学的でもスピリチュアルでもなんでもなく、すこぶる即物的なキッカケだったのだ。


単にエクササイズとしてヨガのアサナ(ポーズ)の練習だけをしていても良かったんだけど。ある日突然やってきたシャバーサナ(屍のポーズ。ヨガクラスの最後にリラックスする目的で数分間行う)での「イッちゃった・・・」経験。

えええ?この感覚ってなに?なにがどうなちゃったの?

いわゆるTotal equanimity完全な静けさ、外部の雑音も温度も確実に存在するにも拘らず、自分のセンターは凛と静まり返る水面(さざ波ひとつない!)のごとくStillnessの只中にシッカリと存在する、そしてそれを見守っている自分!夢ではない、超越した覚醒のMomentすさまじい「いま/ここ」感。ほんの数分の出来事だったけど、その衝撃といったら、もー、ガツーン!ですよ、奥様!ガツーン! 

このガツーン!の体験が「瞑想で得られる集中した静けさなんだよーん」となんでもないことのように説明され(by うちのダンナ・元瞑想修行者)ななな、なんと、そうであったかー!と膝をポンと叩き、即座に「呼吸法・瞑想」のクラスを受けまくり、先生を捕まえては質問攻めで自己流攻略法を設定し毎朝夕と自宅で修行・・・いわゆるアサナ(ポーズ)の練習に留まらず、ヨガ哲学に触れると共に瞑想やプラナヤマなど意識変容の修行に足を踏み入れてしまったのです!

ヴィパッサナの10日間コース参加(これまた凄まじい体験をしております)以降も、毎日のヨガ修行(プラナヤマと瞑想とアサナ)を日課とし、ああ、つまり、めくるめくトランスと脳内ケミカルの可能性を模索しつつ至福のオルガスムスの愉しみに明け暮れ(ってアータ結局そこなんかい?って突っ込み入りそうですが)・・・もとい、心の旅、精神旅行の道程を選ぶに至りました。でへへ。なんか、不真面目っつーか、不謹慎じゃない?って言われそうですけど。

つまり、「いま・ここ」で起こっている感覚を受け入れる、この感覚の無常を感じ取る、微粒子レベルでのエネルギーを感じ取る、エネルギー体としてのオノレと外部との境界を突破する、この感覚器官・肉体を持ち想念の渦に囚われたオノレを何も変えず、何もジャッジせず、そのままありのままに見守る観照者となる、そして静かにゆるやかに集中して完全な平静、静謐の中へ入ってゆく・・・こういった、今現在の私にとっての瞑想にて得られる感覚や、パーソナルなヨガ的思想傾向というのは結局、元から持ち合わせていた離人症的傾向がそのまんま「イッテコイ」になってるという事実!なーんだ!というのを、話は戻るがハルジさんの日記を読んでて「はっ!」と気づいたのであります。

パタンジャリ曰くのYogas chitta vritti nirodhah (Yoga is the cessation of the fluctuation of the mind) がヨガの指し示す方角とすれば、その過程で起こりうるTada drastuh svarupe avasthanam (At the time of concentrating, the Seer (Prusha) rests in His own unmodified state)というのは、まさに「ああ。自分が遠くてしゃーないね」とボヤき続けていた自分に他ならず、「結局この人生なんて“この入れ物=容器=肉体”に乗って遊ぶつかの間のダンスみたいなもんなんだよね」と斜に構え醒めた視点で世界を眺める我々そのもの、そのまんまじゃん!なーんだ、ワタシはちっとも間違ってなかったのだ、というか、結局ここに戻っちゃうのかい?という大きな大きなクエスチョンマーク!さて、今後の展開はいかに?





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Last updated  2006.05.15 16:58:57
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