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ここブッダガヤーでは、各国の仏教寺院で修行している坊さん&尼さん以外のローカルなインド人の大半はヒンズー教徒みたいだ。仏教徒の最も聖なる巡礼地なのに、意外だなー、と思いつつ、その数少ないローカル仏教徒の人達と話をすると、ほとんどがヒンズー下層カーストの貧しい生まれ育ちで、自分の意思でヒンズーから仏教徒へ改宗している。
ヒンズー教には「カースト」という階級制度があり、21世紀の現在であっても、インドのあらゆる場面で、このカースト制度は非常に有効、というか、人々のDNAに刻まれた「あたりまえのもの」として歴然と存在する。ローカル新聞を開けば、必ずといっていいほど、アンタッチャブル(不可触民)の悲劇が取取沙汰されている。最底辺のカーストに生れ落ちたら、一生周囲から蔑まれ、穢れたものとして忌み嫌われ、人間以下として生きてゆかなきゃなんない。実際に子供のころ、学校で自分は席を離れた場所に置かされる、自分が触ったものには誰も触れたがらない、ランチタイムは教室から出て行かなければならない、などなどの体験をした、と、自ら仏教徒へ改宗した男性から聞いた。 日本に生まれ育った私たちが「えー、そんなの酷いねー」なんて簡単にジャッジできる次元の問題じゃない。例えば、私たちアシュタンギが敬愛してやまないパタビ・ジョイス、グルジはブラーマン(カースト最高位)の身分だから、自分よりカーストが低い人が作った食事なんて、ゼッタイ食べないよ。それが、あたりまえなんだもん。駅でポーター(荷物運び)に自分たちの荷物を持たせてる中流階級の家族連れの態度を見てごらん。ポーターを「ニンゲン」だなんて思ってないし、そう扱ってないから。電車の中を這って掃除する男の子なんて、虫けら扱いで乗客に足蹴にされてるよ。 それに、日本だって部落やアイヌ、そして女性に対する差別がしっかりあるんだから、その辺の認識や責任をおざなりにして、他国の階級制度に口出す資格はないというか、いや、意見を持つのは自由だけど、説得力はない気がする。 ともあれ、仏教もジャイナ教もシーク教も、ヒンズーのカースト制度に反発するカタチで派生した信仰なわけで、そういった意味ではヒンズーのカースト制度から抜け出すための改宗というのは、「ああ、そうかー」と、やたら納得できる。そして、この地ブッダガヤーは、仏陀が悟りを開いた(=enlightened)まさにその場所、ということで仏教徒のメッカとなり、様々な変容をした各国の仏教寺、僧院、修行僧、巡礼者が集まる中、ここに生活するローカルにとって最も身近な「脱カースト制度」信仰が仏教である、といったところなのかな。 それでは、本来の意味で仏教というのは、一般市民には根ざしてないのか?という疑問が湧いてきた。結局インドはヒンズーの国で、亜流としての仏教、って感じなのかな?とか、色々と。そういえば、これまでに出会ったインド人の殆どは、ヒンズーかクリスチャンかムスリム、たまにシーク(これはアムリッツァへ行ったからだけど)だった。現役&元お坊さん以外で仏教徒にはあんまり遭遇してない。つまり訪れた地域がそういう所ばかりだった、ってことでもある。だからこの点でブッダガヤーは、「村をあげて全面仏教徒!」ってところなのかな?なんて期待していたのに・・・。 そんなこんなを胸に抱えて、各国の仏教寺院、僧院をプラついてみる。チベット、ビルマ、タイ、中国・・・きらびやかな極彩色の建物が立ち並び、門前には物乞いと土産物のストール。オフ・シーズンのせいか、寺院・僧院を訪れる人数は少ない。ほとんどの寺院は歴史が浅く、古くて質の高いものを良しする日本的感覚からすると、「え?ちょっとこれチャチじゃない?安っぽくない?とってつけたような仏像じゃない?」なんて拍子抜けする。それでもココロ落ち着く寺院では、仏陀像の前に座りこんでリラックス。外はメチャクチャ暑いので、静かでひんやりとした境内はオアシスのようだ。たまにインド人の家族連れがドドド、とやってくる。外国人観光客はめったに見かけない。 実はブッダガヤーには2日しかいられなくて、日本寺院で座禅をするか、菩提樹の元で瞑想をするか、どっちにしようかなー?と悩んだ結果、やっぱり菩提樹の元で瞑想でしょー、とあっけなく答えがでた。しかし、ここブッダガヤーも呆れるほど暑いので、朝と夕方に分けて行うことにした。特に夕方は6時から本堂でお坊さんたちが集まり一斉にチャンティングを行い、それがマイクを通して外にも流れてくるのが、とても雰囲気良くてねー。うーん。2500年前の太古に思いをはせ、ゆったりとした時間に身を任せる。自宅でやる瞑想、瞑想会でやる瞑想、お外でやる瞑想・・・それぞれに良さがあるけれど、こうやってお外で神経質にならずに開放的に行う瞑想は気持ちがいい。周りを見ると、いろんな人たちが思い思いに瞑想をしている。自由ですよ、って雰囲気が、そこにはあった。 インドに疲れたなぁ、と思い立ち寄ったブッダガヤーで一息。そこには、特にすごいこともなければ、新しい発見も洞察もなかった。そこにあったのは、なんの変哲もない「ただここにある」っていうことそのもの。白でもなければ黒でもない、右でも左でもない、善でも悪でもない、限りない中庸。インドのヒンズー世界から受ける印象は「極端な両極が同時に存在する混沌と寛容」なんだけど、仏教世界から受け取る印象は、「限りなく中庸」って感じだ。 究極のバランス、その極致、果てに無となり、すべてとなる・・・そんなイメージ。 瞑想をしていると、確かにそんな一瞬がある。一瞬の「中性浮力」状態。内へ内へ内へ・・・と向かい、その果てに全てを覆いつくす、呑み込むような、これまでの世界が論理が常識が「ご破算」になる瞬間。その静けさ、身体感覚もなくなる、浮遊感。 うーん、なんか言葉では言い表せないんだけど、これまでやってきた瞑想の感覚(?)と、ここブッダガヤーで感じた「仏教」的印象がキレイにジグソーパズルみたいにパチンとはまったみたいな気がした。でも、そんなことは、本当はどうでもいい。私は仏教のことなど、ちっとも判ってない。理屈も論理もセオリーも知らない。でも大事なものは、すでにいつも「ここ」にあって、それは私の中にちゃんとあるんだ、ってことに間違いはなさそうだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.05.17 21:04:43
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