カテゴリ:日々の雑感
小さい頃から大概のことは、「先ず我慢すること」を自然と習慣付けられていたように思います。
「お兄ちゃんだから我慢しなさい」「明日になるまで我慢しなさい」「・・・ができるようになるまで我慢しなさい」など・・ それが、親にとっては入手可能なことであっても、大概はすぐに手に入るなどということはなかったことを振り返ると、 親から子供に対する「教育」あるいは「しつけ」の一環として、何でも簡単には手に入らないことを体得し、それなりの努力のステップが必要であることを私たち子供に求めていたのかもしれません。 もちろん、本当に経済的に困難な時代もあったことでしょう。 私なりの結論から先に言いますと、 子供の頃は、基本的に我慢することを学び、努力して獲得するというステップを踏む必要があるように思います。 いい意味での「理性」や「向上心」、「協調性」などが自然と身につくのではないでしょうか。 ただ、そうした経験をしながら成長して大人になってからもそれが当てはまるかといえば、 そうともいえないと思うのです。 原始的な欲望、例えば生存欲、食欲、性欲、のようなものは、子供時代の我慢の習慣から「理性」として習得して、それがゆえに社会が平和に成り立っているともいえます。 それができない人が頻繁にニュースに登場することは残念ですが・・・。 ところが、社会的存在欲や対人関係における自己表現が必要なときに、あまりにも「我慢」を自らに強いることは、時として、チャンスを失ったり、素晴らしい出逢いを見過ごしたりといったことになりかねない面が表面化してきます。 例えば、一声かけさえすれば成就したかもしれない恋のチャンスを、妙に躊躇したり我慢したりしたために、みすみす失うなどの経験は誰にでもありますよね。 仕事などにおいてもそれと同様のことが起こりうることは、容易に想像できるでしょうし、多くの方が似たような経験をしてきたことでしょう。 大人の場合は、総合的な判断の結果として、「決断」をするという行為によって、単なる消極的な自制に終わらせることなく、思いを実現することにこそ意識を注ぐべきなんですよね。 勿論、「決断」には、責任や義務などが伴うからこそ、そこに躊躇や足踏みといった一種の「我慢」が頭を持ち上げてくるものですが、そうしたものを乗り越えてあるひとつの方向性に向かって「決断を下す」ということが必要になってきます。 だからこそ私たちは「大人」として生きているわけです。 そう考えていくと、大人は、既に原始的な欲望に対する我慢ができているという前提であれば、 むしろ、社会的な側面では、ある程度、自分の思いや意思に対して妙に躊躇したり我慢したりするよりは、積極的に立ち向かっていくことが大事であるように思います。 そこで、結論なんですが、 子供時代にしっかりと我慢することを学んでいる限りは、 大人となったいまも我慢を続けることにいつも美徳を感じるよりは、 時として、「我慢しない」「自分を表に出す」「自分の思いに対して素直になる」・・ そういうことが逆に大切になってくるのだということ。 我慢しないということと自分勝手な行動をすることには、多少違いがあるはずです。 『自分の思いを押さえ込みすぎない』といった方がいいのかもしれませんね。 思いと行動にギャップが大きいほど、自分らしさを失っている状態だということ。 自分らしく生きていくことをもっと大切にするべきだと思うのです。 ブログ仲間のワンクリックに感謝! お寄りいただきありがとうございます。 貴重なワンクリックに更なる感謝。 クリックするだけで、無料で募金ができます。 クリック募金とは、クリック募金サイト上の募金ボタンをクリックするだけで、無料で募金ができる仕組みです。 あなたに代わって、スポンサー企業が寄付をするのであなたには一切お金がかかりません。 左のオレンジ色のバナーをクリックしてその先に表示される案内に従って、クリックを頂けましたら幸いです。 こんな形で誰かの命が救われて笑顔が見れたら素敵なことですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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