テーマ:暮らしを楽しむ(388345)
カテゴリ:日々の雑感
最近は夜から早朝にかけて道沿いのちょっとした植え込みのようなところですら、こおろぎの鳴き声が耳に入ってきます。 もちろん、鳴いている訳ではなく、摩擦音であのような涼しげな音を出していることは誰もが判ってはいるものの、虫本来の姿を離れて、『秋の情緒』のひとつとして心に響いてきます。 鈴虫の放つ音色とこおろぎのそれとは、かなり質の違うものを感じますが、私は、こおろぎの放つ素朴な響きが結構気に入っています。 子供の頃は、秋になるとススキの草原のようなところに行った覚えがあります。 そこで何をしたのかも良く覚えていませんが、その時もこおろぎの鳴き声とススキの草原の何となく寂しげな雰囲気が妙に記憶に焼きついています。 合わせて、土臭さというか、臭覚で感じる秋の記憶というものも、毎年秋風を感じる頃になると、その記憶の一部がふとしたことから蘇ってきます。
そうそう、この話をしながらふと思ったのですが、 人間の感じる季節感というもの、その根本は、成人してからというよりは、幼児期か幼少期までの記憶に影響を受けているのでしょうが、ひょっとしたら、遥か昔のご先祖さん達の時代からDNAの中で受け継がれてきたものの影響もあるのではないでしょうか。 例えば、人間や猿たちは、蛇などの爬虫類を見ると、とっさに『怖い』という反応を示しますが、これも単体としての一個人の人生の中での経験からくるというよりは、数十万年の時の流れの中での何十代も何百代もの人生の中で積み重ねられた経験がDNAの遺伝情報の一部として受け継がれて今の私たちの感覚の中にさえも残されてきたのではないか?? ・・・などと考えてしまいます。 話が飛びついでに、『話し言葉』についても疑問がありまして、 例えば、時代劇などで話されるサムライ言葉や町人言葉、あるいは朝廷の貴族言葉など、テレビや映画のなかで、当時の話し言葉として役者の台詞を通してよく耳にしますよね。 しかし、文書として残されている歴史的な資料に当時の口語、つまり『話し言葉』が記されていたとは思いにくい気がします。
現代では、携帯のメールやブログなどでの表記をみても、文語的なものよりもむしろ 口語ですら使わないような『話し言葉口調』でしるされることがむしろ一般的になってきつつあります。 それどころか、『顔文字』に言葉を託して、記号が物を申す時代です。 でも、読み書きすること自体、相当な由緒有る家柄なり学識を持った人にしかできなかったであろうことを思うと、昔のそうした人々が、話し口調の文章を書いて残したとは考えにくいとは思いませんか。 それとも、歴史資料の中には、直接話法的な『 』のついたような会話が残されているのでしょうかね。 それで・・・・何の話から横道にそれたかというと『こおろぎの鳴き声』でした。 秋といえば、運動会。 明日は、祭日であるとともに、長男の小学校の運動会です。 そして来週末はチビ(次男)の幼稚園の運動会。 お弁当を一緒に食べるという部分はかろうじて残されていますが、 相手の帽子を奪った方が勝ちなどという『騎馬戦』・・・なんだか迫力無いな~と思うのは私だけでしょうか。 まぁ、子供達にとっては、やっぱり、子供時代の大切な思い出の1コマですから、 明日は、シートを持って場所取りをしたり、カメラの準備をしたりして、『お役目』を果たすとしましょう。
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