カテゴリ:心の持ちよう
以前は英語という単科目を教えていたので、あまり意識していませんでしたが、今は全科目を視野に入れた学習塾を経営しているので、いろんな科目に対して自然と興味を持って見るようになりました。 そうした意識も関係しているのでしょうが、学生たちの教科書を見るのがとても面白いと感じるようになりました。 特に、国語関係や、歴史関連の教科書などは、いろんな知識の宝庫であることがいまさらながらに新鮮に感じられます。 高校生の教科書は特に面白いです。 高校という位置づけを考えると、卒業後、いろんな専門の分野に進んでいく学生が「どの分野の専門に進んでも一応その専門分野の基礎部分をカバーしている知識」とでもいうべきものを身につけるべくして構成されているのが教科書だと思います。 そうすると、もちろん、その道の専門家からみれば、基礎の基礎的なことにとどまるのかもしれませんが、素人目でみれば、そうとう深く突っ込んだところまでが触れられている内容であることを感じるものです。 それがまた面白いと思えます。 そして、この部分に対する感じ方は当の高校生たちの感じているであろうものと、私たち大人の感じるものはまた別のものだろうと思います。 学生にしてみれば、情報が多いということはすなわちテストなどで覚えておかねばならないことがおおくなるわけですから、「負担感」を感じる面で捉えるかもしれません。 ところが、大人となって、試験をされるという受け身の立場でなくなってからこうした書物に触れると、かえって自然な感覚での「知識欲」を刺激されます。 つまり、大人である私たちは、「知識」そのものが大切なのではなく、仕事や生活の中で出くわすいろんなことに対する判断をするときの判断材料のひとつとして、個々の知識の価値よりも、そうした情報の蓄積からくる「総合的な価値尺度」として役立てようという立場での知識を必要としています。 なぜならば、知識そのものは、調べさえすればいくらでも調べられますし、その知識があったからといって目の前の問題が解決するとも限りません。 むしろ、目の前の問題を解決するために「いったい何が問題なのかを見極めて、その解決のためには今何をしなければならないのか。そのためには何が必要で、それをどう活用すれば問題の解決に繋がるのか」・・・・というような「決断するために必要な判断をする基準」のようなものとして、学生時代から積み重ねてきた総合的な判断材料(価値基準)を尺度として生かしながら生活(仕事を含めて)をしているわけです。 つまるところ、大人の必要なものは「決断」の尺度としての知識(常識というものも含めて)ですね。 だからと言って、学生と大人では知識を得るための目的が違うかといえば、本来の目的からすればまったく同じなんですね。 唯一の違いは、大人の場合は、学生時代を終えて、そうしたチャンスがなくなってから初めて学生時代にやっておいた方がよかったと気づくこと。学生の場合は、それがなんの役に立つのかが判らぬまま目前の試験のためにやらざるを得ないという視線でしかとらえる余地がないということ。 結局、どんなことでも、その基礎固めの必要な時期には、本当の意味での必要性が判らずに先人(つまりは大人であり、その道の達人たち)からみて、 若い時期にこれをやっておけば、今はわからなくてもきっと将来やっていてよかったと自分で自覚する時期が来る・・そういうことが基本となって私たちは学ぶことが必要なのだと思うのです。 つまり、将来「自分自身や自分の家族を最小単位にした自分の環境を社会の中でより良いものにしていくために、今、目の前にあることに全力で取り組む」ということが大切なことなんですよね。 その最低限のことができるようになって(もちろん、それを待っていてはいけません)社会のために何ができるかを考え行動することができるようになるということではないでしょうか。 では、ボランティア活動をする人たちはすべてがわかっている段階に達しているかといえば、彼らもまたボランティア活動を通して学び続けているプロセスの上にいるわけです。 人間、生きている限り学び続け、そして大切なことは、その学んだことを「行動」をとおして人生の中で活用していくことですね。 「知識」を「知恵」にかえて使っていくことです。 「行動」しなければ「もったいない」・・・・そういうことですね。 ブログ仲間のワンクリックに感謝! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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