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カテゴリ:子供の成長
物事に対処する時に、そのことに「取り組む姿勢」あるいは、「思い入れ」によって取り組んだ結果が大きく違うものになることは、説明の必要なく、どなたもお分かりかと思います。
例えば、先日のブログで書いた「集中力トレーニング」を例に挙げますと、 集中力を引き出す手法も根拠も理論も整っていて、全員に同じことをやっても個人差がでてきます。 これもまたごく自然なことです。 ただ、「取り組む姿勢」「真剣さ」「情熱」・・・などの精神的な面で、「一生懸命さ」」が感じられない生徒もまたどんな集団にもいるのが不思議でもあり残念でもあるのですが、それもまた現実です。 たとえ、そうであってもその生徒を「何とかして精神的に成長させてあげたい」、「何とかして一生懸命になることが本当は自分自身がとてもうれしいことなんだということを感じさせてあげたい」と思うわけです。 そうした「一生懸命さ」の感じられない生徒には私は、地響きがしそうなぐらい、喉が切れて出血するくらい、思いっきり炎を燃え上がらせながら叱ります。 別に腹が立っているのではないのです。 「それだけ真剣に全力で、全エネルギーを投入してその生徒に本当の楽しさ、手応え、自信を感じ取ってほしい」と思っているから、 叱りつけた後、叱った私がバタンと倒れてしまってもおかしくないくらい全力で叱ります。 私自身が全力で気持ちを投げかけなければ、その生徒にはその真剣さが伝わらないし、それを放置しても決してその生徒のためにはならないと思うからです。 もちろん、そんな生徒は、ある意味打たれ強いですから、そのくらい真剣にこちらが働きかけても時間がたてばまた忘れてしまうかもしれません。 たとえそうであっても、絶対にその生徒に対する真剣さをこちらが緩めないというような忍耐力もいります。 「真剣に関わる」と当然そうなります。 以前、「愛情の反対は無関心」だという話がでましたが、 それと同様に、「関心を持って関わるならばとことん関心を持つ」=「真剣に関わる」ことが必要だと思います。 中学生は今、期末試験の直前です。 子供たちは、テストの成績=点数という目に見える部分の意識しかないようですが、 私は、テスト勉強に対する「取り組む姿勢」を毎回前回よりも改善、向上させていくこと自体にこそ本当の意味があるのだと考えています。 大人の世界で考えた時に、「試験」がやるべき「仕事の結果、成果」だとみなせば、 当然、到達点の結果を出すためには、その前段階で何をどのような形にまで仕上げる必要があって、 だから今何をしなければならないかを考えて、大人は仕事をしているはずです。 大人になったら日常的に仕事は当然、生きていくことの中で、当然やっているし、やらねばならないことの「訓練」を学生時代にやるのだということ・・・つまり、「取り組む意識の訓練」です。 「訓練」という言葉は、なんとなく第三者が強制的に強いるイメージがありますが、そうではなくて、自ら強いて自分自身の心を律して「取り組む意識」の真剣度を向上させるために、「試験」というチャンスを活用しているのだと。 つまり、叱られる子には、自分が「意識不足」である現状を気づかせなければなりません。 すべてが自分自身の人生をよりよくしていく訓練であって、自ら鍛えるからこそ、そこから成長もし、「喜び」「楽しみ」「自信」「信頼」「感謝」などを感じられるよう本人に気付かせてあげる必要があります。 真剣だから楽しい、一生懸命に取り組むから手応えと自信を感じられる・・・・ そこに気付いてほしい。 だから、こちらから「真剣に全力で体当たりして関わる」・・それが「叱る」ということだと思うのです。 私は、本当にまれにしか叱ることはしませんし、その必要もありません。 でも、叱るときは、そんな気持ちで、全エネルギーを投入して真剣に叱ります。 昨日は、試験前にもかかわらず、取り組む姿勢の真剣さに欠ける中学生がいましたので、本人の気持ちを「キリッと引き締める」ことを願って久しぶりに「大爆発」しておきました。 ブログ仲間のワンクリックに感謝! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
June 17, 2008 11:53:02 AM
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