テーマ:暮らしを楽しむ(388393)
カテゴリ:自らの成長のために
昨日は一日中雨が降ったりやんだりを繰り返すとても蒸し暑い日でした。 久しぶりに味わう蒸し暑さ(たぶん今年に入って一番蒸し暑かったはず)に妙な懐かしさのようなものを感じていました。
体育館で汗だくになってバスケットの練習をしていた遠い昔(本人はそんなに昔とは感じていませんが、でもやっぱり昔ですね)の蒸し暑さです。 蒸し暑い体育館で良くもあんなに激しい運動を何時間もやっていたなと。 体力そのものは青年期と今を比べるのは無謀なこととして、 メンタルな面では、過信しているわけではありませんが、多少の苦しさで投げ出したりしない自信があります。 近頃では、絶対に逃げない、意地でも投げ出さない・・・とメンタル面はむしろ今の方が強くなりました。 ただ、その遠因は、学生時代の身体的+精神的な苦しい時期を経験したことにさかのぼれます。 今は、家族に対する責任と自分自身の人生に対するこだわりの二つの要因が根底にあります。 基本的には「最後には何とかなるに違いない」という楽天的なこころをもっていますが、 青年期と今の大きな違いは、人生の残り時間に対する無意識の焦燥感にあるかもしれません。 青年期には、常識としての寿命という程度の認識はあっても、そんなものはまだまだやってこないし 時間はいくらでもある・・・・そう思っていました。 ところが、おそらく今まで生きてきた人生よりも残った人生の方が短いに違いないという年齢に差し掛かっている今、事情が違ってきました。 今こそ、やれること、やりたいことに全力で向かっていく最終コーナーに差し掛かっているという認識。 苦労のための苦労ではなく(つまり、苦労は買ってでもするべきだと思っていた頃と今は違うという意味)自らの存在の意義を確認し、もてる潜在能力の最大限を引き出して自分らしく生きるために時間を有効利用しなければならないという意識。 ですから、いつ手に入るか分からない漠然とした希望のための偶発的、受動的な「苦労」ではなくて、 毎日毎日しっかりとした手応えとして感じることのできる存在感(活き活きと生きている実感)、そして、そのプロセスの中にある瞬間的な達成感や心が成長し続ける充実感に対する希求。 その希求が原動力となる「初めから必ず乗り越えることを前提に取り組んでいる能動的な苦労」こそをしていくべきだと思っています。 当然ながら、「突然襲ってくる苦労」がなくなるわけではありませんし、これに関しては制御不可能でしょう。 ただ、「無駄な苦労」と「能動的な苦労」の区別をする意識をもっていれば、その意識のフィルターを掛けることで「有効な時間の使い方」によって、人生の残り時間の密度を上げ、自分としてやっておきたいことへより多くの時間配分ができると思うわけです。 もっと単純化すれば、「楽しい苦労」を探してでもやりましょう!! ということです。 ブログ仲間のワンクリックに感謝! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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