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「Life」を求めて

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2005.12.17
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カテゴリ:哲学について
というわけで、瓦割りさん失礼。

「職人の知」ってのはかなり行為的に得られる「知」であるものですよね。
職人に限らず、アスリートや、武道家の「知」もそうですね。

「知」ってものは、常に行為的に獲得されていくものであるんだと思います。

行為から遊離しているような知識ってのはただの情報にすぎなくて、それが生きた「知」になるのは行為と結び付いた限りにおいてだと思うんです。

中学生で英語を学びますが、学んだ情報が初めて「知」として行為的に身体に馴染むのは英会話ができるようになってからですよね。
別の観点からだと、高校受験や大学受験にパスするということかもしれません^^;「試験」というのも模擬的な実践の場になるわけでですね。
だから本質的な学びじゃないって批判されがちなんですよね。

それは学者の「知」もそうだし、社長の「知」もそう。
さらに言うならは「宗教者」の「知」もそうかな。
「知」は必ず何らかの形で「実践」と結び付く必要がある、んですよ。

ここでの「行為的な知」というのは、実践の場面と相即的に結びついた知のこと。「技術を発揮」することと、それを「知る」ことが直接に一つであるような意味での「知」です。
「情報」レベルの「知」と「行為的実践的」レベルの「知」とどちらが高階にある「知」なのでしょうか?

無論後者なわけです。
それが「わかる」ということはそれが「できる」ということと直接に一つなんです。


よく何の役にも立たないような「雑学」の知識ばかり豊富なヤツって身の回りに必ず一人はいますよねw
彼の雑多な情報は、どこにおいて「実践」されているのでしょう。
それは遭難した吹雪の中の山小屋でも、難破した船の上でもなく、大抵友人達とのカフェや授業の休み時間の会話において。
いわゆるコミュニケーションツールとしての「知」なんですよね。
コミュニケーションという観点から見れば、人の意識を引こうと雑学を主要ツールとして用いているようでは、そのコミュニケーションの質の低さが伺えますよねえ。
つまり彼はコミュニケーションということがよく「わかって」ないんですよね。

実践の場がどのようなものか、そしてそれに相即する形で必要な「知」とは何か、を求める事が、「知る」ということなんでしょう。


実践の場ってどこだろう?

米粒一つの違いまで「わかる」寿司職人の実践の場は、客を前にしたカウンターだし、
自らの肉体を競技の形に合わせるために必死に練り上げたアスリートなら、大観衆を前にした競技場の上。
学者なら、自らの思考を綴った本の上や、学会での発表の場にあるのでしょう。

では、自分にとっての「実践の場」はどこか?と問うてみる。。


…弓道場や、学会や、本や、ブログの上や、etc. は大事な実践の場になっていくのかもしれないけど、
どこに傾倒するともなく全てに傾倒するような、
全ての現場をそこに統一的にまとめあげるような場所、
つまり本当の意味での実践の場は

「LIFE」

におきたい。

でも、
これは、もうすでに、
いつも常に、用意されているんです。

自分にとっても、すべての人達にも。
もれなく。。(認識論的独我論なんてキライ)

だからその実践を生きる為に、覚悟としての「知」を色々なところからもって来る必要があるんです。





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Last updated  2005.12.18 00:53:56
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