〈私〉の起源について
〈私〉の起源について、西田幾多郎は(善の研究では)「個人ある前に経験あるのである」と言い、和辻は「個人は全体性の否定的契機」であると言いますが、そこでは独在性は抽出されていません。「このメートル原器はどのように生じたのか」と起源を考えてみるに、そこには他のモノサシでそれを規定したのではない「無条件性」があると思います。「なぜだかわからないが、〈私〉は存在してしまっている」という「無条件・無前提・無意味」に開かれるということです。永井哲学だとそれを「無内包の現実性」と呼んでいます。禅は独在性を取りこぼしながらも、その「無条件・無前提・無意味」を強調し続けてきた伝統があると思います。只管打坐の坐禅というのはまさに存在が「無条件・無前提・無意味」に開かれ於いてある状態を表現したものであると思うのです。「無所得無所悟」という言葉や「坐禅をしても何にもならん」という言葉でよく耳にします。藤田一照さんがよく言われる「云為」ということも、存在の無条件性に根差した「云為」であると思います。天下唯我独尊の「独尊」も無条件の尊さでなければと思います。「サピエンス全史」を書いたハラリ氏は「ホモデウス」にて、人類が飢餓・戦争・病気などあらゆる苦しみ困難を自分で克服する時代になって、神を頂点から引きずり下ろして、人間が神になってきていると言いますね。でも今まで神に判断してもらっていた倫理的基準「殺してはいけない、盗んではいけない、嘘をついてはいけない、等々」を人間は失い、迷いやすくなる。そこで今度はその判断をAIやビッグデータが行うようになると言います。恐ろしいのは、人類にとって独在性の自覚が必要とされなくなるのではないかということですね。自己の存在に驚き、その奇跡性に打たれるような経験を誰もできなくなる時代が来るのではないか。AIの判断は常に正しく、人間は自分で判断することを放棄して、常にぽかんと口を開けてテレビゲームに没頭する子供のような状態になってしまうのではないでしょうか。繊細な身体の感覚に向き合うとか、静かに物を見たり、聞いたり、ただ一つの独在性の開けに根差した人間的動機が失われるのではないか、とも妄想します。世界内に「私」という世界を開く窓が多数存在することを世界内のシステム(神やAIやビッグデータ)は知っているが、どれが本当の唯一の〈私〉であるかをシステムの側は把握できない。〈私〉が世界というシステムに参加するということは、〈私〉が世界というシステムを起動させるということですが、その構造をシステムの側、世界の側、神の側は知っているのであろうか?それを知ろうとするのが独在性の哲学で、特に最近では「永井均」という人がそのシステム側に大きく貢献をしている。本当に〈私〉は世界に寄与していないのか。