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カテゴリ:哲学について
「生命の報告」
「私が生きる」ということは、 単純に「私」という個体が存在するということではなく、 私が生きているという事実を、 私も他人も了解している、 そのような非対称的な相互了解の〈場所〉を生きている、 ということだ。 「哲学」というものが、「いま生きている」ということの報告(レポート)であるとするならば、 それは、この個体としての「私」が於いてある〈場所〉についてを報告することになると思う。 「私が私として生きている」 という自覚が、 「私が〈場所〉として生きている」 という自覚の変遷を報告することなのだと思う。 例えば、弓を引くことの目的、弓道習練の目的は、 「私が弓を引く」 という自覚から、 「〈場所〉に於いて矢が放たれる(離れる)」 という自覚へと発展することなのだと思う。 「私」という作為的主体が、 弓や、 的や、 身体や、 射法や、 道場や、 他者の視線や、 自分の中っ気をも含み込んだ〈場所〉へと邂合すること。 そこにしか〈離れ〉は生じないんだろう。 〈離れ〉は矢が射手から「離れる」ことや、弦から手が「離れる」ことではあるのだけど、ほとんどの弓道経験者なら「私が私から〈離れる〉」という読み方をすることは困難ではないはずだ。 これはまったく神秘的な体験などではなくて、事実の報告である。ただそれが科学論的・唯物論的な報告ではなく、哲学的な報告であるということだけは留意してもらいたい。 私が私から離れるということは、私が私自身をも含み込んだ〈場所〉として自己了解(自覚)をすることだ。 周囲の期待を背負いながら、自分自身の中っ気を捨て切れないのは、まだまだ場所的な自覚が不十分だからだ。 周囲の期待を了解すればするほど、「私」の個人的欲望は〈場所〉へと普遍化(昇華)していくはずだ。 中っ気は、弓を引くことへの自己了解の不十分から生じる葛藤だ。 〈場所〉を了解するということは、自らの欲動、想いがどこからやってくるのかを明確にする。 それが私個人に於ける、主観的な思い込みの欲望に過ぎないのか、 客観的に場所的な把握をした上での使命感であるのか。 「頭が良い」とは、 「場違いでない」とは、 「現実を良く解っている」 ということは〈場所〉な了解ができているという事だ。 私という生命が、私一人寄がりでないということだ。 いや、本当は私という場所は他人の場所に直接アクセスすることはできないし、人間の生命は十分に一人寄がりなのだけど、その「一人寄がり」という言葉の意味を逆説的にも含み込んだ言語ゲームの成立する事実が、この〈場所〉を一人寄がりにはさせてない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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