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2007.08.19
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カテゴリ:弓道について
本多利実翁
ついに正式に本多流(財団法人生弓会http://www.hondaryu.net/)に入門。
まあ、自分の大学も本来は本多流がベースになってるからね。でも大学は礼射と武射とがごっちゃになった体配だったなあ。。。

今日も道場で本多流の体配を教えてもらったけれど、やっぱ日弓連のそれと思想レベルでぜんぜん違うわ。本当に「侍の礼」という感じで、細かい動作が実戦を想定していることがわかる。

本多流の射の理念は「飛・中・貫」
即ち飛距離・的中・貫通力。
まあ、実戦じゃあ、遠くの敵に射当てられ、鎧を貫通できなきゃ自分が死にますので。
その為本多流は強い弓を引くのを好む傾向がありますな。
最低でも20kgの弓を使えと言われました。
本多流は、弓を引くという態度において、敵(的)を意識し、自からの生死を意識して弓を使う。動作動作にその覚悟を自覚させられる。
礼射系のように、優雅に上品な弓じゃない。実戦を想定した武士のたしなみとしての弓だと思う。
射形も武道の無骨さが表れている弓の引き方をする。弓手肩を落として固めて、妻手は小離れだし、会も早い。やはり戦場に適した引き方を相変わらず追求していると思う。


ちなみに日弓連の射の理念は「真・善・美」で、本多の「飛・中・貫」とは正反対の弓道理念であると思う。
武射系の流派に比べると、やっぱり弓を引く目的・思想が抽象的で、よく言えば「立禅」、悪く言えば「お座敷弓道」になってるんだなあって思う。体配も「武士のたしなみ」というよりは「能」なんかに近いと思う。
段位とか、称号にこだわる人が多いのも、その抽象的になってしまった弓道の大きな一つの指標になっているんだと思う。他に求めるべきものがわかりにくくなっているんだよね。

今回、流派の弓を学ぶことは、自らの射に歴史性を付与することになっているんだと思う。ここでの「歴史性」というのは個人を超える意志の意味。
弓を引くということにおいて「身体感覚」というのを小さな自覚と考えると、「歴史性」というのは大きな自覚のことであると言える。
大きな自覚は個人の死には関与しない。なぜならそれは個人の死を超えたところにある自覚を得ることだからだ。
死を超え得る射を体現するということ、個人を離れるということ。これは阿波研造が言ったような、離れかつ離れない意志を得ることへの道だと思う。
弓の目的は、
小さな自覚(個)を離れ、
大きな自覚(歴史性)を離れないということだと思う。
個を離れることが結果、個を活かす。
「真・善・美」という語からは、「一射絶命」て言葉は出てこないと思う。あまりにも形而上学的・イデア論的なんだよね。



そう、正面打起しをしている弓道家の方々、「正面打起」「大三」をとる射法は、本多流の創始者、本多利実翁が確立されたものだそうな。
そう考えると本多流、かなり浸透しているじゃあないか。。。。





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Last updated  2007.08.19 09:59:35
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