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カテゴリ:哲学について
最近、通勤時に五木寛之訳の歎異抄を読む。
自力と他力の違いは、 自力とは、意志の内に無限を包むことである。 他力とは、意志が無限にの内に包まれることである。 そのような自覚の違いであると思う。 煩悩から脱せず、自力のジレンマにもがきながら、それでも他力を見出せる意識というのが、人間の「意志の自覚」の凄い構造であると思う。 意識が無限に触れるということであると思う。 でも、どんな生き方をしていても、自己が常に無限に接していることを忘れてはいけないと思う。 例えば、写真家の星野道夫は自然において無限を見出していた。 そしてその無限の憧れを心の中にずっと秘めていた。それが仕事の原動力でもあった。 人生の原動力であった。 そんな無限の憧れを抱き生きていくのはとても素敵だ。 甲野善紀なんかも、身体に於いて無限性を見ている。 これらはある種の宗教性を帯びていると思う。神を心に抱くのと同じであるが、彼らは個人的にそれを営むところが凄い。 現代は情報であふれ、人間は世界のすみずみまで何もかも知っていると思っている。人間の世界から無限は隠されている。 私もそう思ってしまっている。 でも、世界はすべて情報に変換されるとは限らない。有限化されつくされることはない。 なぜなら無限においてあるからだろう。かならず、無限への繋がりは見出すことができる。量子力学においても、アラスカの自然に於いても、自らの身体においても。 人間の意識というものは、無限においてあるのに、その無限を有限化していこうとする働きをする。と言うかその有限化、言語化の働きそのものが意識であるとも言える。 でもそれは結局無限においてなされている。 その「結局無限においてなされてる」ってことを法然や親鸞は絶対他力って表現したんだろうな。さらにそれを南無阿弥陀仏という念仏で表現するところがまた凄いと思う。たいした発明であると思う。 人は無限(神や憧れ)を自己の内に抱くことができる。自己は有限であるのに、その有限において無限が包越されているという矛盾。。。 その無限(神や憧れ)は錯覚なのか。。。 ちなみに僕の子は今絶対他力の境地にあるのは間違いない。 発達心理学には明かせない意識の謎が今後哲学で明らかになるか知ら。。。。。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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