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「Life」を求めて

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2008.05.25
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カテゴリ:弓道について
昨日数ヶ月ぶりに雨の中道場へ行った。

久しぶりに弓を引くことに、さすがに身体も心も追いついてはきてくれなかった。

若干の無理はしつつも、妻の15kgの弓を引くので精一杯だった。

立ち方から、構えた時の下筋の感触や、手の内の定め、視線や呼吸、
そんな忘れていた感触を、一本、二本と矢を巻藁に打ち込みながら確実にしていこうとする。

背中、足腰、胎、呼吸への配慮、焦点の定め方など、徐々に曖昧だったものが具体的に思い出されてきた。

「弓を引く身体」を取り戻すには時間がまだかかりそうであるが、「弓を引く意識」はいまだ忘れてはいなかったようだ。
衰え、付いてこなくなって無理をさせている筋繊維が、よりいっそう弓の張力の感触を身体へと具体的に伝えた。

しかし忘れたからと言っても、
「思い出す」というのを射のテーマにしてはいけないのだろうな。
それは「なぞる」ことだからだ

「なぞる」というのは鈴木弘之範師の言葉にあったと思う
「-足踏みがわるいなら、わるいなりに、その一射を行じることです。
 -修正はなりません。修正はなぞることです。気が乱れます。
 -足踏みは、目的物との気のかよいです。気のかよいを失ったら、その射は死んでしまいます。
 -足踏みが、正しくできなかったときでも、そこで往生することです。そのぶんを補うために闘うのです。
 -努力するのです。努めるのです。頑張るのです。気で射抜くのです。
 -ここで踏み切る気を養いませんと、いつまでたっても修正する癖はぬけません。
 -わたしは、このように実行しております。」(弓道教本 第四巻より)

この鈴木範師の「足踏み」と言うのが、学生時代からずっと弓道の奥義であるように思えてならなかった。

弓道というのは、
徹底して繰り返される反復動作の機械的世界と、
現実という予測不能なカオス的世界との、
矛盾した二つの世界を総合しようとする営みである。
新たな現実にその都度その都度対処していくことである。

弓道家は流れる時間の中に、現実の唯一性を見つけることになる。
いつか「永遠の今」という矛盾した時間構造を了解するようになってくるのだろう。


当たり前のように、流れる日々の時間を生きていて、
急に時間がこの今一点に集約される時がある。
周囲の風景が引き締まり、過去も未来もその現在に中心化される瞬間と言うのがある。

誰にも平等に流れるはずの当たり前の時間の裏には、必ず「なぞる」ことのできない、初めて迎えるその時へと通じている道がある。

「弓道」もまた、その方法の一つ。





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Last updated  2008.05.26 01:23:13
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