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カテゴリ:哲学について
人が抱える現実というのは一つの現実だけではない。
一つの現実にのめり込み身をやつすだけ、それだけその現実での自覚から客観性が損なわれてくる。。。 仕事だけの日常にはまり込んでしまっている今の状態がいい例だ。 それは質感の「捨象」が日課となるような生活である。 毎日同じ時間に起きて、同じ電車に乗り、同じ道を歩き、同じ人に会い、同じ話をして、同じように机に噛り付いて、同じような時間の残業をして、会社を後にする。これが質感の「捨象」だ。 現実の詳細に目を向けようとしない、現実の質の抽象化。 世界の物質化。 時間の空間化。 形成力の捨象を日課とするサラリーマン生活の典型だ。 帰り道、家に帰るのに急ぐ、 そこから本当の短い自分自身の一日がようやく始まる。 すでに眠りに着いている娘の寝顔を見る為に。 妻の作ってくれた夕飯を食べる為に。 しかし、10時に家に着き寝るまでの120分は、創造的な自分に還るには短すぎる。今日も創造性の無い一日だったと別の現実の立場から気付いた時にはもう眠る間際。。。 公務員やサラリーマンという人種は、組織から「意志」を剥奪されることを余儀なくされている。 「意志」というのは死に対峙する態度であり、生命力のことだ。 そして生命力とは新しい現実を形成する力のことだ。 強いられて行うスケジュール管理や、目標設定やそれに類するメソッドをいくら重ねても、意志が根底に働いていなければ無意味だろう。 高校生や大学生の部活の方がまだモチベーションのマネジメントは上手だと思う。 子供の頃「大人になる」ということを嫌悪していた原因の一つはここにあった。 即ち質感の捨象である。 かつてはあらゆる出会い、あらゆる発見が新鮮であった。 しかし大人になり同じように新しいものに出会っても、そこに新鮮さは無い。 あえて質感を捨象しているから。 出会いが形式化しているから。 繰り返される大人の現実の歴史性を乗り越えるのは、創造性。特に孤独に根ざした創造性である。 「物が真に表現的なものとして我々に迫るのは孤独においてである。そして我々が孤独を超えることができるのはその呼び掛けに応える自己の表現活動においてのほかない」(三木清『人生論ノート』P67 新潮文庫) 一つの現実に身も心も浸りきることで、人間は孤独を忘れる。 孤独を忘れることは、死を忘れることだ。 そして死を忘れることは生を忘れることである。 三木の文脈に従うならば、 孤独とは新しい現実、新しい質感の発見であり、 発見は同時に表現であり、 表現とは形成であり、 形成とは新しい現実の創造である。 いつもと同じ時間空間で生きることが強制されるような現実の中、いつも見ている道の木立の中にも、ビルの合間から見上げる空の深い青さの中にも、いつも見尽くされていない現実がある。 いや、あるのではなく、創造される。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.12.13 00:49:00
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