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「Life」を求めて

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2008.12.22
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カテゴリ:弓道について
081221 市の弓連の納射会。

内容は、一手座射+四矢立射
妻・娘の応援の甲斐あって、練習不足ながらもなぜか6射皆中優勝手

午前中道場大掃除の為、めずらしく50人くらい参加してましたが、6射皆中が自分だけというちょっと物足りない感の残る優勝でやんした。。。(ちなみに6射5中も1人だけ。。。)

なんと同じ日に自分の本多流の師匠も、別の大会で優勝をしてたらしくびっくり。

実はこの師匠に借りている弓(竹・無銘・19kg並)とかなり相性が良かったようで、角見&矢束さえ一定に保てれば必ず中るという感じ。(ちなみに師匠はこの弓で妻手肩の筋を切ったそうな。。。)
当日も2週間ぶりで練習不足の自分になり代わって、弓に中てて貰った感が。。。

弦音も冴えてるし、離れの反動が気持ちいいくらい素直な弦の戻り方をしてくれて、執着心の強いもたれ気味の自分の射に対して、非常にいいバランスを取ってくれる。
下が強い弓の為、会で若干もたれても矢が下に落ちず、
学生時代から使っている羽根がボロボロの安物ジェラ矢でも、十分な飛行性能を引き出してくれています。

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学生弓道を引退して数年経つけれど、今の自分の弓道に対する心境を報告してみたい。

社会人の弓道(日弓連の弓道)の中で弓を引いていて、やはり緊張感が無くどこか弓という道具の本質から離れたものになっている感がある気がする。まあこれだけ組織が大きく一元化されれば形骸化も当然だし、弓を執る目的は十人十色なのでなんとも言えないけれど、

でもやはり今の自分にはこの流派の弓が合っていると思う。
真・善・美という理想だけを求めるのではなく、それ以前に飛・中・貫という実質が伴わない弓は現実的じゃないと思う。

まあ、弓道やその他武道に限らず、「道場」という抽象的な場所がすでに現実的ではないのだけれど、
でも道場の抽象性は、逆に現実の具体性が暗に前提されていなければいけないだろうと思う。
現実の具体性というのは例えば、
「戦場で的の甲冑を貫くこと」だとか、
「一矢で迫り来る獲物を確実に殺すこと」だとか、
現実の具体的な生とか死に直接に関わるような、そんな状況。

学生時代はよく、的を虎のつもりで見るということを意識して練習をしいていた(弓道読本の影響もアリ)要はこの一矢を確実に中てなきゃ自分が喰われるというような緊張感。
試合での弓も、戦場での弓も、狩りでの弓でも、お座敷弓道でも何でもいいけれど、要は現実から離れない弓を引くことが大事だと思う。
生死を決するような強い要求の中で引く(ような覚悟での)一射を積み重ねていかなければと思う。
ガチガチに緊張する試合。非常に追い詰められた中で試行錯誤した射というのは、確実な感触として細部の感覚まで強く残り続ける。もちろんその感触と共に、的中への強い要求も一緒に。
その確実な感覚や、現実からの強い要求、それに基づいて弓を引くことが現実から離れない弓であるし、その状況で培うものこそが本当に意味のある「鍛錬」なのかなとも思う。

おもちゃのような軽い弓で山なりの矢を飛ばして紙の的に穴を開けるだけ、
というのはちょっと弓本来の目的からは逸れてきているのではないかなとも思ってしまう。
また、的中と射形とどちらが大切かという議論もよくあるが、その議論自体が一射一射の創造性、その都度その都度の現実の創造性を無視して、
射を現実から抽象してなされる議論であると思う。

時間も空間も、自分も他人も、この現実のあらゆる状況というのはどこまでいっても既に与えられ続けているものではあるけれども、
与えられている現実の状況に対し常に新しい現実を創造し、捉え直す、意味付け直すような生を、弓を求めていかなければと思う。





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Last updated  2008.12.23 02:12:11
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