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テーマ:弓道(485)
カテゴリ:哲学について
GW 山形にて
【09年5月3日(日)40射21中5.05割】 ××○×○×○○○○××○○××○○○○ 12/20 ××○○×××○××○○×○××○○×○ 9/20 鶴岡市営の弓道場2時過ぎに行ってみたが、地元の高校生が団体練習していた為使用できず、夕方出直し。 個人使用は2時間210円。 6時過ぎ~8時まで稽古。 行ってみると誰もおらず貸し切り状態だった。 室内10人立の道場と聞いていたが、審査にも使われそうなかなり立派で綺麗な道場だった。 ちなみに、写真の「至道館」というのは、庄内藩の藩校の名称で昔の文武教育の場だったそうです。 道場に一人だけでの練習というのは久しぶりなのだが、誰にも見られていないのをいいことに、射も体配にもかなり雑さが出てしまった。 人が見ていない所でいかに自分を律するかというのは昔からの倫理の命題だが、一人稽古にもそれがその倫理性が要求されてくる。 倫理とは言い換えると他者を意識した振る舞いであるとも言える。 宗教を持っている人は日常に於ける他者と、さらに日常を超えた絶対の他者=「神」を意識して生きている。 それゆえに、射が他者への「表現」でもあるということを改めて強く実感。 息合いであったり、行射の運行であったり、礼の仕方だったり、同じ道場内に誰かが居ると居ないとで自己の律し方も変わってくる。 超越的な物への意識が強い人ほど、自律できる人であると思う。 その「超越的なもの」というのは何も神や宗教のイメージだけに収まるものではないだろう。 明日の試合だとか、来月の審査だとか、あるいは歴史の中の偉人やかつて共に弓を引いた仲間であっても良いと思う。 例えば星野道夫においては北海道のヒグマであったり、 例えば『だれもしらない小さな国』の主人公においては小山の存在だったり、 今生きているこの現実、その外側への意識を日常の稽古の中に少しでも含めていきたい。 今日の稽古に於いて、自分の内にその「超越的なもの」への意識が何かあったかと問われれば、 それは欠如していたと言わざるを得ないような稽古だった。 今後も自分の内に引きこもるような稽古には気を付けていきたいとおもう。。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.05.07 22:31:19
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