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テーマ:弓道(485)
カテゴリ:弓道について
【09年6月21日(日)20射12中6割】
弓道教本四巻の鈴木弘之範士の文が好きでよく読み返す。 技術論と精神論とを渾然一体に、未分のまま、非常に素直に上手に表現されていると思う。 「目的物との気のかよい、心気を丹田に収めての大きな調和」 ということを繰り返し述べておられる。 例えば、物見について 「わたくしは、物見を深くいたします。 その理由については、あごがあがらないようにするためであります。あごがあがりますと、あごと丹田との連絡が切れてしまうからであります」(p152) 例えば、打起こしについて 「気は、一つは目的物とかよわせてあります。もう一つは、丹田に納めてあります。物見において、目的物をしっかりと見ておりますからそちらのほうには気がかよっておりますが、うっかりいたしますと、こんどは丹田との気の連絡が切れてしまうのであります。こちらの気が切れてしまいますと、射の出来も腑抜けになってしまうのであります。 打起しは-中略-肩を上げずに、両の拳はあがりながら、気は下げます。そしてあごと丹田との連絡をとるのであります。決して力んではいけません。力みますと、丹田が上にあがってしまうからであります」(p154) 例えば、大三について 「打起こしから、大三に移る弓手の手の内・・・・・ これは、虎口に、ぴたっ、とはめるのであります。このときに力を使いますと硬くなってしまいますから、力まずに、力を使わず押しひらいて大三に移行いたします。 大三までの妻手のほうは・・・・・ このときの妻手は、弦にひかれたまま妻手肘をおこすようにして、張ってやります。 これらのことは、結局、丹田で行うのであります」(p156) 例えば、呼吸について 「わたくしは、打起こしの呼吸は、吐きます。 吐きながら打起こし、吐くだけ吐きます。吐きながら、丹田をおさえてゆくのであります」(p158) 例えば、引分けについて 「引分けは、手さきでなく、腹でやるのであります。腹で引分けますと、大変楽に行じられます。そして、からだの前すじを使わずに、裏を使うことであります。 引分けから会にはいりつつ、弓の一点をぼかさず、押しつづけるのであります」(p159) 例えば、発(離れ)について 「発そのものは丹田で押してゆくのであります。会にはいって、体を使っておりませんと、発はでないのであります と申しますのは、会にはいって、腰(丹田・腹)がはいっていきませんと、胸が割れないのであります。 ただし、これは無理にこしらえるものではなくして、じいっ、とやってゆくのであります。そうすると発が生まれます。割れるわけであります」(p161) 上記のように所々で、気の通い、丹田の重要性を説いている。 今の自分には、ここまでの丹田の使い方はまだまだ全然出来ていない。 ただ、 足踏み胴造りの際、取掛けの際、打起こしの際、大三の際、 都度都度、自分の射の具合を丹田に問うことは出来る。 都度丹田を意識を置いてみると、身体が無理な姿勢になっていないか、正しく立てているか、弓に力余計な力が懸かっていないか、矢に力が乗っているか、直感的に分かる気がする。 その射が自然の理に適ったものかどうかを腹で判断できるような気がする。 丹田とは人間の体内に実在する器官ではないが、人間の中心感覚をとらえる上での一つの指標だと思う。 人間の中の自然を自覚させしめる重要なキーワードであると思う。 「自然の離れ」とよく言うように、射に自然を求めるのであれば、身体の自然を自覚する必要があるのだろう。 まずは丹田がきっかけとなるか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.06.22 01:00:51
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