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カテゴリ:プライベートについて
約二ヶ月振りの更新である。
項目ごとに近況を綴ろうか。 ◆1、弓道について近況 四月集計から2ヶ月分報告漏れてましたが、弓はそれなりには弓引いてました。 ****************************************** 一月 矢数集計 【164射 105中 6.4割】 二月 矢数集計 【236射 155中 6.6割】 三月 矢数集計 【4射 1中 2.5割】 四月 矢数集計 【221射 128中 5.8割】 五月 矢数集計 【246射 145中 5.9割】 六月 矢数集計 【268射 159中 5.9割】 ****************************************** 稽古は本多利実の「弓を引くに中指一本で事は弁ずる」という言葉を念頭に弓手造りをしていた。 拇指と中指の輪で羽引できると、弓手脇から背中を通して、妻手側の脇までもが効いてくるのだよね。 この感じが円相というのだろう。 あとは会での頬付けを徹底。 会で矢を口割りに合わせるのでは、低すぎるのではないかと思い、「頬付け」に変えた。 矢束はそのままで、離れは出やすくなったし、目と矢と距離が近い為、狙いが一層正確になる気がした。 矢をできる限り視界に捉えながら的と距離感、関係性を見ながら狙う。 会でピタッとくる感じを得た。 結局そのような「感じ」の集積をいかに言語化していくか、ということも上達の為の方便なのだろう。 ◆2、仕事についての近況 9月末にて会社を辞める旨を上司に報告。 6月のボーナス査定前だったが、ボーナス支給額は特に減ると言うことは無かったようだ。 そしてなぜかこのタイミングで昇格もあったりした。。。 4月以降9時前に会社を上がれる日が殆んど無い。 10時11時までの残業が連日続く。 理由は営業所で自分が一番得意先数が多いこと、一番目受注数字が大きいこと。 あとは納期遅延のクレーム対応に追われている。 凄まじいテンポで雑多な毎日の仕事を処理するだけの日々になってきてしまっている。 反省する間も、計画を見直す間も何も無くただただ目の前に立ちはだかってくる仕事に対応している。 そんな仕事に追われる日々、何とか自分を保つ為にしていること。 仕事終って、家について、近所の畑道を軽くランニングすることだ。 走ることで一日はリセットされている。 朝寝起きに走るよりは、夜仕事でクタクタになった後に走ることのほうが、一日を完全燃焼させられて気分良く就寝できる。しっかり寝付けるからか、基礎体温が上がったからか、次の日の朝すぐに寝床から身体を起こすことができている。 ランニング始めて先月くらいまでは2km程度だったが、最近は4kmくらいを目安に走っている。 走ることで、頭の中に滞積してしまった雑多な情報がクリアにされる。 資本主義社会という場所に於いて展開するこの仕事は、 理性的な法則、取り決め、常識によって現実からあらゆる質感を抽象する。 一転、走ることで自分という身体に立ち返ることは、観念的な視野が払拭されて、現実を生々しく捉え直すことができる。 この夏で仕事も終わる。 ◆3、子供について近況 我が子が徐々に人格を獲得していく様を見ること、それが嬉しくて仕方ない。 平たく言えばなんでもない日々の娘の成長・変化が嬉しい。 例えば、弟のことを気にかけたり、好き嫌いができたり、歌を歌ったり、踊りを踊ったり、休日一緒に散歩して道端に花を見つけては「お花きれいね」と言ったみたり。 人格というものは常に他の人格に対して表れる。 それ単独では生じ得ない。 人格とはつねに間柄的に生成される。 あなたに私が対することであなたの人格を呼び覚ます事になる。 私もまた親としての人格を呼び覚まされることになる。 彼女が物を見たり聞いたりすることの背景には、親である我々の物の見方、聞き方が暗に働いているはずだ。 我々の生きる現実の質感、ニュアンスというものを彼女も共有していくことになる。 でなければ花を見ても「きれい」だなんて言わないだろう。 その様な人格というフィルターを介して子供が物を見たり聞いたり感じたりすることは、同時にそれらを人格的に表現す事を可能にするのだろう 即ち「お花きれいね」という意味のある言葉、場に即した表現を獲得することになる。 彼女の生きるこの世界が人格的に規則正しく秩序付けられていく過程を見守ること、それができることが親として凄く嬉しい。 8ヶ月の弟くんはまだまだ純粋経験の世界の住人である。 ◆4、参禅について近況 純粋経験と言えば、 毎週日曜早朝の参禅にも慣れてきた。 とは言っても身体がもともと固いので、まだ結跏趺坐ができず、半跏で座している。 約40分の打坐の後に上げる般若心経も、半分までしか諳んじることができない。 しかしそれでも足るを知ることができるのが良い。 禅とはあらゆる対立を放棄することなのだろう。 こだわるとかこだわらないということから自由になることだ。 要は二元対立の世界から統一の世界に入ることだ。 意識の対象を絶つだけで、それと対峙する自己というものも絶たれることになる。 自己とか自分というものは常に対峙する何ものかに対してのみ現れてくる。 自己のない世界を体験することは自己のある世界を上手く生きる為にも必要な方便だろう。 いつでも自分という対立的世界から手を離せること、そんな方便が禅だろう。 ところで、子に対峙する親と言う立場はどこまでも子に執着する立場だ。 今の自分にそれを捨てきることが本当にできるのだろうか。。。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2010.07.16 00:59:48
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