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カテゴリ:哲学について
何かでライラしたり、落ち込んだりすると、坐禅をして世界をリセットすることが癖になった。
うちの寺は坐禅堂なんて無いので、寺の座敷の一室で、義父の書いた達磨画の掛け軸の前で坐っている。 手足を体幹に収めるように組み、 吐く息をじっくりと肚に落とし、 じいっと静かに座っていると、やがて心臓の鼓動を身体で感じられる。 鼓動とは言っても、ドクンドクンと打つ音が聞こえるのではない。 心臓というポンプが働き、その流動に合わせて肉体が前後にわずかに揺らぐのを感ずる。 その揺らぎに合わせていくと、やがて身体という実体が、その概念と共に空気の中へと 溶けえ消え込んで行く感じがする。 冬、部屋は寒い。 窓の外では音も無く雪が白く落ちてくる。 しかし座禅をしていると、不思議と寒さで震えることはない。 くしゃみも出ない。 身体が辺りの冷え込んだ空気へと同化してしまうのだろうか。 時折、半眼に開いた瞼が徐々に落ちることがある。 しかし瞼が落ちると、今まで冷気に触れていた目玉の冷さを瞼が感じて、また瞼は上がる。 一つの感覚に沈潜していくこと。 たとえば 音楽に耳を澄ます。 一つの雲をずっと眺める。 呼吸のリズムの中で走り続ける。 弓を的に向けてじいっと推し引きする。 動かず、静かに座す。 それらは、あらゆる役柄を捨て「ただ在る」という存在そのものへと回帰することでもある。 そしてそのゼロ地点から、因縁を見詰め直して、新たにその与えられた役柄を捉え直し、また生き直すことができる。 感覚への沈潜において、世界を包み表象する側であった主観が、かえって客観に包み反される点がある。 私は無となるが、それは主観の消滅のことではない。 それは私が無限の環境に溶け込むという意味で無である。 無であるということは、何ものでもなく、また何者にもなれる自由を得ることだ。 主客未分ということだ。 そこは有と無と同義となる地点なのだろう。 色不異空、空不異色、色即是空、空即是色という般若の智慧もまさにそれだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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