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「Life」を求めて

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2011.01.05
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カテゴリ:哲学について
何かでライラしたり、落ち込んだりすると、坐禅をして世界をリセットすることが癖になった。
うちの寺は坐禅堂なんて無いので、寺の座敷の一室で、義父の書いた達磨画の掛け軸の前で坐っている。
禅ダルマ.jpeg

手足を体幹に収めるように組み、
吐く息をじっくりと肚に落とし、
じいっと静かに座っていると、やがて心臓の鼓動を身体で感じられる。

鼓動とは言っても、ドクンドクンと打つ音が聞こえるのではない。
心臓というポンプが働き、その流動に合わせて肉体が前後にわずかに揺らぐのを感ずる。
その揺らぎに合わせていくと、やがて身体という実体が、その概念と共に空気の中へと
溶けえ消え込んで行く感じがする。

冬、部屋は寒い。
窓の外では音も無く雪が白く落ちてくる。
しかし座禅をしていると、不思議と寒さで震えることはない。
くしゃみも出ない。
身体が辺りの冷え込んだ空気へと同化してしまうのだろうか。

時折、半眼に開いた瞼が徐々に落ちることがある。
しかし瞼が落ちると、今まで冷気に触れていた目玉の冷さを瞼が感じて、また瞼は上がる。

一つの感覚に沈潜していくこと。
たとえば
音楽に耳を澄ます。
一つの雲をずっと眺める。
呼吸のリズムの中で走り続ける。
弓を的に向けてじいっと推し引きする。
動かず、静かに座す。
それらは、あらゆる役柄を捨て「ただ在る」という存在そのものへと回帰することでもある。
そしてそのゼロ地点から、因縁を見詰め直して、新たにその与えられた役柄を捉え直し、また生き直すことができる。

感覚への沈潜において、世界を包み表象する側であった主観が、かえって客観に包み反される点がある。
私は無となるが、それは主観の消滅のことではない。
それは私が無限の環境に溶け込むという意味で無である。
無であるということは、何ものでもなく、また何者にもなれる自由を得ることだ。
主客未分ということだ。
そこは有と無と同義となる地点なのだろう。

色不異空、空不異色、色即是空、空即是色という般若の智慧もまさにそれだろう。





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Last updated  2011.01.06 00:13:59
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