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カテゴリ:哲学について
いよいよ明日3月10日から修行僧堂に入り雲水としての修行生活が始まる。。
「百日禁足」といって上山安居後の3ヶ月は一切外部との連絡は取れず、お山に篭りっきりで家族とも会えなくなる。 無論携帯電話等の電子機器は一切持ち込み厳禁。 しかし寺の住職になれる資格を得る為には、最低半年は修行した経歴が必要になる。 一応1年間の修行のつもりだが、師匠である義父の体調や介護、あるいは育児の問題等々あれば半年で戻って来いということになるかもわかりません。 とりあえずしばらくPCには触れなさそうな生活になりますので、しばらく日記は更新はしません。(今までもあんまししてないが・・・) しかし、結婚して子供が二人もいる状況で、一年間も家庭を離れて(捨てて) 修行だができる時間が与えられるというのはある意味贅沢なのかもしれないな。 偶然にもちょうど同じ年齢で釈尊も家族を捨てて出家している。 でも家族と離れることは単純に寂しいし、生活が変わるということは、自分も変えていく努力も必要だろう。 読経、ご祈祷、坐禅と作務ばかりの生活。さすがにノート・筆記用具は持って行けるので修行中は、自分の変化についてできる限り日記などは書こうと思う。 特に曹洞宗は行住坐臥全てが只管打坐(坐禅)の心で修するという禅風の為、修行生活に余計な言葉は無用となっていくのかもしれない。 しかしながら、生活に於いて何か文章を書くということは非常に大切なことなのだと思う。 何か文章を書くことを意識した生活と、何も書かない生活との差には大きな隔たりがある。 現実をただ受動的に受け取り見ることと、見える風景に言葉を当てがいながら見ることでは、その認識と発見の差は大きく異なる。 ありのままに認識した風景を、都度言葉で捉えなおしていくということは、認識を豊かにしていくことでもある。認識が豊かになるということは、 新しいものの見方を獲得すること、 一つの対象を複数の視点から観れるということだ。 たとえば、人が生きるということには常に二つの捕らえ方が許されているだろう。 一つは、今生きているというありのままの「事実」 もう一つは、なぜ今生きているのか?どのように生きていくのか?その事実に対して、「意味」を与えようとする捕らえ方。 ありのままの「現実」に徹して現実そのままに世界を捉えようとするのが禅の取り組みでもある。 しかし人はこの事実に対して「意味」を与えていかざるを得ない。 自分が何者であるのか。人生に何の意味があり、何を為さねばならないのか。 人は、現実から一旦はなれ、現実を過去や未来から逆照射してみるという離れ技的認識ができる。 ハイデガーなどは、死から人間の現在を意味づけ、死に向き合わないことは非本来的であり頽落であるという。 ありのままの現実に言葉を与え、意味付けることは、認識を繊細に豊かにしていこうとすることでもあるが、 偏見に陥る危険を常に孕んでおり、 極端になると現実を貧しく抽象化してしまうことにもなりかねない。 「花は紅、柳は緑」と見ずに、花より団子、柳にユーレイとなってしまうかもしれない。 坐禅の世界は逆に風景を覆う言葉や意味を取り払い、事実をありのままに観ようとする作業である。意味の世界を離れる禅の世界では、死への不安も妄想であるし、常に死に対峙する現存在というのも妄想であるということになるのだろう。 しかしながら、その認識を純化していこうとする禅の取り組みもやはり言語化されて、方法論となっていく。すなわち「禅」という単語が端的にその事実を示す。 坐禅や、禅問答をすること、あるいは作務に没頭することは、我々を言葉の世界=理性の世界から離して、純粋な認識に還してくれるが、 その言語を絶した現実そのものを表現する為にも逆説的に言語が必要となるだろう。 そもそも我々が表現をする時には必ず言語を絶した何かを伝えようとしているのではないのだろうか。。 そして、表現とは常に彼岸に対して表現せられる。 彼岸とはどこか、 仏教では悟りの境地というのだけれど、 ここでは隣人であり、他者という公共的存在であるだろう。 我々は想像力を持ってして、彼岸にいる人間の人格に対峙しなければならないのではないか。 彼岸に対して想像的であるには、表現者であるには、坐禅をしなければならない。と僕は思う。 坐禅と表現とを表現活動の表裏と考えねばならない。 自らを空しくするからこそ、自らの底から湧き出るものがあるのだと思う。 自分から手を離すこと=自らを空しくして初めて、その場、その現実に徹底していくことができるのだろうと思う。 あるいは、事実と意味とは同時に我々の意識には生起しているのかもしれない。 しかし、現実に対して、ありのまま見ることも、言葉をあてがい、意味をあてがうことも自由に行えるということは素晴らしく面白いことだ。 文章云々と言っておいてなんだかだらっと書いてしまったが、 そんなことを、しばらく坐って考えてきます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011.03.09 23:22:27
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