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「Life」を求めて

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2019.01.24
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カテゴリ:哲学について
22日に​​​​​師家養成所から戻り、今日から通常勤務。
午前中は山内への挨拶回りと不在時にたまった仕事の処理をする。
午後からNHK文化センターにて坐禅講座。
社会学者の岸政彦「断片的なものの社会学」 ​の文章と、まどみちお「どんな小さなものでもみつめていると宇宙につながっている」の文章を引用して話を進める。

岸政彦「断片的なものの社会学」より抜粋

 小学校に入る前ぐらいのときに奇妙な癖があって、道ばたに落ちている小石を適当に拾い上げ、そのたまたま拾われた石をいつまでもじっと眺めていた。私を惹きつけたのは、無数にある小石のひとつでしかないものが、「この小石」になる不思議な瞬間である。

 私は一度も、それらに感情移入をしたことがなかった。名前をつけて擬人化したり、自分の孤独を投影したり、小石と自分との密かな会話を想像したりしたことも、一度もなかった。そのへんの道ばたに転がっている無数の小石のなかから無作為にひとつを選びとり、手のひらに乗せて顔を近づけ、ぐっと意識を集中して見つめていると、しだいにそのとりたてて特徴のない小石の形、色、つや、表面の模様や傷がくっきりと浮かび上がってきて、他のどの小石とも違った、世界にたったひとつの「この小石」になる瞬間が訪れる。 そしてそのとき、この小石がまさに世界のどの小石とも違うということが明らかになってくる。そのことに陶酔していたのである。


 そしてさらに、世界中のすべての小石が、それぞれの形や色、つや、模様、傷を持った「この小石」である、ということの、その想像をはるかに超えた「膨大さ」を、必死に想像しようとしていた。いかなる感情移入も擬人化もないところにある、「すべてのもの」 が「このこれ」であることの、その単純なとんでもなさ。そのなかで個別であることの、 意味のなさ。

 これは「何の意味もないように見えるものも、手にとってみるとかけがえのない固有の存在であることが明らかになる」というような、ありきたりな「発見のストーリー」なのではない。 私の手のひらに乗っていたあの小石は、それぞれかけがえのない、世界にひとつしかないものだった。そしてその世界にひとつしかないものが、世界中の路上に無数に転がっているのである。


以上の岸政彦「断片的なものの社会学」抜粋の文章にはライプニッツ的な神の意志(※永井均 『私・今・そして神』を参照のこと)を〈私〉がモノに対して働せることが可能なのではないか?ということを惹起させる。
〈私〉がとりたてて特徴のない小石に神の意志を働かせて〈世界にたったひとつの「この小石」〉としているのではないか。ナンでもない小石を唯一のコレにする神の意志のような能力が〈私〉にはあるのではないか。というか、〈私〉であるということがこの世界内で自覚され得るためにはその神の能力が必要不可欠なのではないか?
これは一般的なものを具体的なものに解釈し、具体的なものを一般的なものに解釈するということだけには尽くされないことが起きていると思う。
可能的世界(神の知性)から現実的世界(神の意志)が実現してきている。
永井哲学でいうところの〈私〉と「私」の表記にまさに対応する。現実的〈私〉と可能的「私」との対応である。
コレ性→ナニ性への変換は子どもが言葉を習得する際に機能する。
〈コレ〉は「ナニ」だったんだと理解し、「ナニ」は〈コレ〉だったんだと驚く。
言語習得の形式はこれに当てはまるのであろう。現実的な〈コレ〉を可能的なもの一例「ナニ」として理解し、可能的な「ナニ」が現実的な〈コレ〉であるということに驚く。
世界を開く唯一の〈私〉は、世界に無数に存在する「私」の一例として自覚されることを一般には、「物心がつく」という。
ここでは神の意志が否定されて神の知性が働いている。西田哲学の場所論的に言えば、超越的主語面が超越的述語面に包摂されて、絶対無に於ける原初的判断が成立する。
コレ性→ナニ性・ナニ性→コレ性の哲学として世の中を眺めると面白いかもしれない。
世の中には二種類の仕事が存在する。
コレ性をナニ性へと変換する仕事と、ナニ性をコレ性に変換する仕事である。
「コレ→ナニ性質」と「ナニ→コレ性質」と仮に名づけるとすると
◆「コレ→ナニ性質」の一例
・精神科医の仕事(医療的診断と薬の処方)
・占い師の仕事
・科学的探究の方向
・現成→公案
・凡夫
◆「ナニ→コレ性質」の一例
・永井均の仕事
・まどみちおや詩人の仕事
・マインドフルネス
・「天上天下唯我独尊」
・公案→現成
・成仏
小石のナニ性をコレ性に変換させることを仏道修行においては「成仏」と言われているのではないか。生活すべてを成仏させるということはこの方向性で人生を生きるということでもある。
澤木興道師の「自分が自分を自分する」は「坐禅が坐禅を坐禅する」などともよく読み替えられるが、これを一般定式化すれば「〈コレ性〉が「ナニ性」を〈コレ化〉する」とも言えるだろう。この時に自分が成仏したり坐禅が成仏したり、食事が成仏したりする。
現在における救いの形式は「ナニ→コレ」である。逆に過去や未来での救いということを期待する場合には「コレ→ナニ」と働くであろう。例えば「あの時の失恋は辛かったけど、今となってはいい思い出だ」とか「この失敗の痛手は、将来笑い話になるだろう」とか。でも今ここの直下の現実においては「コレ→ナニ」的な慰めは誤魔化しでしかない。

コレ→ナニ主義の人は、すべてを理詰めで説明する快楽に陥りがちであり、形式にあてはめすぎるきらいがある。ナニ→コレ主義の人は、目の前のことに理屈抜きで身体が動いてしまう。直情型になりやすいのではないか。
神の知恵に酔うものがいる。
神の意志にも酔うものがいる。
前者は科学者であり、後者は哲学者である。





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Last updated  2019.01.24 22:26:43
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