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2019.01.31
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カテゴリ:哲学について
​​​仏教3.0を哲学する 永井先生のコメント


先日立ち上がった藤田一照さんのところでの永井哲学の勉強会でも「慈悲の瞑想」については中心的な議論として上がってました。

その慈悲の瞑想について永井先生の答えが出てますね。
「私が注目したのは、他の瞑想(や坐禅)とは異なり、これは言葉を使ってしかできないこと、しかしその言葉の質は普通のヤリトリの言葉とはまったく違うこと、であった。私の思うところでは、これは、通常の言葉によるヤリトリとは逆に、先ほど述べた意味での無為なる存在が、他の無為なる存在に呼びかける、いわば超越者に対する祈りの言葉なのである。そして、おそらくはそれが、たぶんそれだけが、われわれの場合の蔓なのである。」

慈悲の瞑想が「言葉」によって為されるというところがとっても重要な気がする。
言葉が登場すると、そこでいきなり超越的になり、形而上学的になり、呪術的になり、宗教的になってくるようで。

祈りの念はコトバにならなければ〈他者〉には届かない?!

というか祈りというのはナニでできているのかな?
と祈祷寺に務め毎日6度も祈祷している私が問う(笑)

お経もそうだが、言葉で導入されて、言葉を超え出るような機能が祈祷にはあるような気がしている。
原始宗教などでのトランス状態の祈りの形とか。。。
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Last updated  2019.01.31 00:09:29
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