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2019.02.03
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カテゴリ:哲学について
現成公案とナニコレ二元論
最近永井哲学の影響でもっぱらはまっているナニコレ二元論。(もとはライプニッツ原理とカント原理 by『私・今・そして神』)
仏教も、哲学も、生活も、修行もあらゆることが「ナニ性」と「コレ性」で見えてくる。
でもこうゆう「あらゆることが」って見方がすでにして「ナニ性」へと頽落し始めの第一歩でもある。
まあ、そこんところを自重しながら現成公案の話。
現成=コレ性=物事の事実的側面
公案=ナニ性=物事の意味的側面
だから「現成公案の巻」=「コレナニの巻」となる。
現成とは何だ?
この目の前に展開されている世界とはなんだ?
最初の2行をこんなふうに訳せないか。
1行目
「諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり、死あり、諸佛あり、衆生あり。」
→「世界が現実的(アクチュアル・事実)である時節」 アリアリアリ
リアリティがある。自分事となる。
2行目
「萬法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸佛なく衆生なく、生なく滅なし。」
→「世界のすべてが現実的(アクチュアル)でない時節」 ナシナシナシ
リアリティがない。他人事になる。
「諸法」については学者さんやお師家さんによって色んな解釈がある。神羅万象とか、大自然の摂理とか、五蘊だとか。
諸法はナニ性で見える抽象的な意味的世界としてみたい。仏法はコレ性で見えるアクチュアルな事実的世界としてみたい。
食事をガツガツとむさぼり食う→ナニ性での抽象的な食べ方。食べ物そのものの事実ではなく、コトバや意味をむさぼり食べている。
赴粥飯法での食べ方(丁寧に食材、料理人、命に向き合う)→コレ性での食べ方。コトバや意味ではなく、事実を食べている。
悟りとは現実的に見ることであり、可能的に見ることを辞める。
3行目
「佛道もとより豐儉より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生佛あり。」アリアリアリ
とアリに戻ってくる。
これは世界はナニ性だけでもない、コレ性だけでもないよということであろう。人生は事実だけではない。人生は意味だけではない。
二即一でアリアリアリ。だから二つの概念がくっついて生滅、迷悟、生佛と出てきている。
西田幾多郎が『善の研究』を発表後、左右田喜一郎の批判に答えて「左右田博士に答う」という論文を出している。純粋経験は意味なのか事実なのかという問いに対して、純粋経験は意味即事実、事実即意味であると答える。西田が純粋経験から場所論へと思想を変遷させる重要な批判であったのだと思う。
で、仏道はもとより二即一、一即二の立場であるということであろう。
ここで、まどみちおの誌を引用
『リンゴ』
りんごを ひとつ ここに おくと 
リンゴの この 大きさは 
この リンゴだけで いっぱいだ 
りんごが ひとつ ここに ある 
ほかには なんにも ない 
ああ ここで あることと ないことが
まぶしいように ぴったりだ
『ふと』
ふと おわった 
いっしんふらんに 注ぎつづけていた 
ぼくの おしっこは 
見つめていた ぼくの
「見つめていたこと」も 
また そして 見つめながら 考えていた
「考えていたこと」も 
また その「ふと」が なぜか 
ふと めずらしい はじめて 
目にすることができた 
時間の まばたきのようで。

事実が意味に見え、意味は事実に見える。コレはナニに包まれ、ナニはコレに包まれる。有は無に見え、無は有に見える。
4行目以降はまた後日。





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Last updated  2019.02.03 13:34:37
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