|
カテゴリ:哲学について
24日に藤田一照さんの茅山荘にて永井均の勉強会第一回目がある。 現在東京で研修中であるが、時間を見つけて発表の準備を進めている。 テキストとは関係ないが、永井哲学はナニコレを巡る哲学である 以下坐禅中の妄想で浮かんだことのメモ 経済学的な「需要と供給」というのも、ナニとコレである。 消費者は「コレ」を欲望し、コレの所有を探し求めている。生産・供給側は消費者に欲望される「コレ」が何かをよく研究・観察し、コレを生産する。生産ということはコレを複製するということで、複製されたコレとは即ちナニのことで、すべての商品とはナニである。 消費者は市場・店頭であたかも「コレ」として陳列され販売されるナニを購入する。 お店で何を買おうか迷うということは、ナニをコレ化しようか迷っていることだ。 所有して自分のものにするということにはナニからコレの変換が必要である。 また、持っているものに飽きるということは逆に「コレがナニ化」することである。 貨幣とはナニからコレへの物理的な変換装置そのものである。消費者はお金でコレを買い、販売者はナニでお金を得る。 仏教者が持ち物を少なくするのは、所有の「ナニ→コレ」には迷いが生まれることを見抜いているからである。ナニということには所有ということがない。所有されたものはすべてコレとなる。だから宗教者が「宇宙と一つになる」とか「絶対無限の愛」とか「尽十方界」とか「大自然の働き」とかいうことは極大のナニへの志向である。解脱というのもコレへの執着からナニへと解脱することである。 布施行ということは、布施するナニ(お金・品物・行為)が受け取り手にとってコレにならないように十分に注意しながら布施する修行である。 究極の真理とは究極のナニ性のことである。宗教はコレ→ナニへの巨大な変換装置でもある。 逆に究極のコレ性は伝統的には禅であり、独在性である。
だから究極のコレ性とは〈私〉である。しかしそれは世界内に登場したとたんナニとなる。 世界とは究極のコレ(〈私〉の生)が→究極のナニへの巨大な変換装置でもある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019.02.19 09:52:57
コメント(0) | コメントを書く
[哲学について] カテゴリの最新記事
|