仏教についての所感
最近、自分がどんどんと頭の悪い駄目な大人になってきているな と感じる。数年前の自分の日記を今読み返してみて、特にそう思う。言葉が出てこなくなってしまっているのだ。自分を省みるという時間が、いつの間にか生活からこぼれ落ちてしまったのだろう。孤独ということから離れてしまっているのだろうな。日々ストレスを抱えながら、メチャクチャに働いた4年間のサラリーマン生活。第二子が産まれ、一気にハードになった子育て。仕事を辞め、関東を離れ、文化・環境の異なる山形に移り住んで、少しずつこの土地の空気に慣れてきて、なんだか徐々に気が抜けてしまったこともあるのだろう。しかし、今まで渇望していた「自分の時間」というものがいざ与えられても、言葉が出てこない、自分の気持ちをどう纏め上げるのか、その方法を忘れてしまっている。人は様々な「役」を抱えて生きているが、今は一日の時間の中で、「父」や「夫」という役が自分を占めてしまっているのだろう。その場その場で与えられる「役」を全うすることはとても大事なことだが、しかしながら役を離れた「個」としての自分に還る時間を確保することも大事だ。サラリーマン時代は、何とか時間を見つけて弓道したり、夜にマラソンをしたり、日曜の早朝に座禅をしたりと努力をしてその孤独を養う時間を確保していた。生活が変わり、またこれから僧侶として新たな役を生きていく者として、その「役の離れ方」を確立する必要があるだろう。それは、夫であることや、父であること、あるいはまた新たに与えられる役に徹する為にも必要なことだ。坐禅をし、読経し、仏教思想に触れてみて、感じたこと。仏教の説くところは、非常にシンプルなことで、楽となることでもある。役というしがらみからパッと手を放すということ。手を放せばその手は自由になる。また自由に手を伸ばし、新たに役に徹し切ることができる。「パッと手を放す」ということは、極端に言えば、それは人間であることからも手を放せるということだ。役を離れれば、その役をまた見詰め直すことができる。役を離れることは、放棄することではなく、その役の意味を問い直し、その役をまた新たに生き直すことでもある。「執着しない」とか、「諦める」とか、「己を捨てる」って姿勢は、返ってより大きな役に徹することになるわけだ。寂滅為楽。仏教はある意味快楽主義的とも考えられるのかもな。修行が終わったら、やはり職業も「僧侶」として生きていければな、というのが今の私の願い。