偏食と箸の持ち方 ~合宿ウラ話
先月30日に終わった、愛夢舎の夏期合宿。先日も書きましたが、なんだか遠い昔のような気がしています。 ところで、ウチの合宿は、まあ、とにかく、ルールが多い。無論、数多くの「理不尽」なルールで生徒たちを拘束することで、非常なる集中力と向上心を引き起こし、感情の起伏を大きくすることが目的でそうしており、決して故なきことではないのですが。 そのルールの中に、こういうのがあります。 「食事で出されたものは残さず食べること。 好き嫌いは言わないで食べること。」 (アレルギーをもっている人は、あらかじめ先生に報告しておくこと) 食事にまつわるルールにはほかに、「いただきます」「ごちそうさま」を大きな声で言うとか、残したら「お菓子を食べ過ぎた」とみなして全部取り上げ、とか、食器をひとつにまとめる、とか、あるのですが、とにかく、この「残さず食べる」は、生徒たちにとって一番の悩みのタネであったようです。毎年のことですが、四六時中勉強をすることより、食事を残さず食べる、キライなものを食べる、この方が、出発前の彼らにとってはよほど大きな問題。 今回も、多々ありました。これまでの経験上、不人気食材No.1は「トマト」のようです。マヨネーズも不人気ですが、これにはアレルギーなんかもあったりして、さすがに僕らもアレルギー性のものを食べろとは言わないので、はずしておきましょう。(全部食べるのは、あくまでも健康維持のためで、食べた結果、体調を崩したり、勉強に集中できなくなるのでは本末転倒。) 他には、そうですねー、梅干とか、ブルーベリーとか、プリン・ケーキ類とか、お肉とか、漬物とか、ココナッツとか・・・。 …あこれは全部、講師陣が苦手なものでした。(どれが誰のだかはヒミツ) さて、いざ食事の時間になると、何人かの生徒が言い出す。「コレ、食べられないんです・・・。」 こういう場合、僕らはさすがに叱ったりはしませんが、「食べられない」の意味を聞きますね。例えば、食べるとジンマシンが出たり、もどしてしまったりするのか、ただ単に、味がキライなだけなのか。もちろん、大抵は「食べられない」ではなくて「食べたくない」なわけです。でも、「食べたくない」にも色々あって、確かに味や食感が合わないというのもあり、こういう場合には「はい、じゃあ頑張って食べてみよー!」と、僕らとしては極めて明るく、彼らに頑張らせるわけです。 ところが中には文字通りの「食べず嫌い」も少なくない。「見た目がイヤだ。」とか「これまでに食べたことがないから」とか。 ほーそうか、ならば今回キミは生まれて初めての体験をするわけだ。記念すべき挑戦の場だ。はい、食べてみよー ・・・まあ、そうなるだけのハナシなのですが。 ただ、ここで思うことが一つあります。 果たして、好き嫌いはいけないことなのだろうか。出された食材は、全部食べなければならないのだろうか。 はい、またしても、全部ぶち壊し的なことを言い出しましたね、ボク。 「そういうルールにしてるのはお前らだろうが、食べなくてもよいなら、初めからそんなルールにするな!」って? ここで思ったのは、そういうことではないのです。例えば、世の中には全く野菜を食べないという人もいますね。その反対に、肉を極度に嫌う人も少なくない。誰しも、絶対に口にしない食べ物のひとつやふたつ、あるもんです。それは僕ら講師陣だって同じこと。それを百も承知で合宿のルールとしており、それはなぜかと言われても、「ルールだから」としか言いようがない。ウチの合宿のルールは、「ルール」としてあるために「ルール化」しているのです。このあたりのニュアンス、伝わるかな?考えてもみてください。ひとつひとつのルールに「なぜ?」という根拠を求めることはある場合には大切だけれども、多くの場合には邪魔になる。守らねばならないことは守る。それだけ。 が、こと食事に関しては、面白い現象が起こる。 例えばですね、いくらルールといっても、「先生に廊下で会ったときには、その場で『でんぐり返しを2回して、立ち上がってさらに2回回って、一礼二拍手一礼をした上で『ワン』という」というルール。もちろん、なーんの意味もなく、さすがに合宿でも、こんなアホなのはありませんが、でも、合宿で「ルールです」って言えば成立する。しかし、やってる側もこっち側も、「コレ、意味ないよな・・・」と思いながらそのルールを遵守することでしょう。 が、食事の場合には違う。関わるほぼ全員が「大変意味のあること」として捉えているフシがある。子どもたちは子どもたちで、イヤな食べ物を、ともすれば泣きながら食べて、そんなにイヤならやめればいいのに、でも「自分のためだから・・・」って言って、がんばる。おそらく、多くの親御さんが、「全部食べさせるのはいいことだ。ぜひやってくれ」と思っている。僕らは僕らで「良いことだ」と思ってやっている。 が、それが「良いことである」ことに根拠はない。 まして、当の本人である子どもたちが「自分は『食べられない』けど、自分のためには食べなきゃ」って思ってる。 この構造、おもしろいですね。 さて、結論です。少々苦言めいた、あるいは、皮肉めいて聞こえるかもしれませんが・・・。 彼ら子どもたちに「好き嫌いはいけないことだ」と思わせたのは、誰でしょう?そして、そんな子どもたちがある食材を食べられなくなったのは、誰のせいでしょう?(むろん、アレルギーをのぞき) そういうことで言えば、もうひとつあります。お箸の使い方です。 僕も、箸のマナーが完璧かといわれれば、多分かなっていない部分もあるだろうからそんなにエラそうには語れないのですが、それでも周囲には「マナーにうるさい」と思われているようで、だからそれを逆手にとって、以前こんな記事を書きました。ところが、生徒たちの箸の持ち方を見ていると、「嫌い箸」どころか、なんだかもう、手がドラリオン状態でマネしようと思ってもなかなかできない箸づかいの子がいる。僕なんかは、「よくそれで食べられるなぁー」と逆に感心してしまうのだけれども、何かの拍子で「箸」の話題になると、どうも彼らは別のことを思っている様子。 自分の箸の持ち方がダメだと思ってる。 いや、そりゃあ、いわゆる「箸の正しい持ち方」ということで言えばダメに決まってるんだけど、でもそれを言ったら、やっぱり大人でも正しくない人は多いし、ではそれで相当困っているかといえば、礼法が問われる場に立たない限り、まあ、ほとんど影響はない。その持ち方だと食べ物が口に運べないというのであれば、これは生命の危機であろうが、仮にそうであったとしても、今の世の中、フォークだってスプーンだって、そのミックス形だって、ある。なんなら、ストロー式のゼリー食品だけで生きていけるかも知れない。フツウに会社員をしているレベルであれば、接待の場で、箸の持ち方が悪くて商談がおじゃんになったとか、聞いたことない。(僕の周りでは)また、お見合いの席とかで、「相手の箸の持ち方が悪いからお断りしたい」というような人がいたら、そんな人は、こっちの方から願い下げだ。 つまり、実生活において、箸の持ち方がどうであっても、そんなに困らない。 ところが、箸の持ち方が「正しくない」生徒たちは、言う。 「大人になって困るから直したい。」 じゃあ、直せばいいのにと思う一方、どうしてキミはその持ち方になったんだろうね、誰にその持ち方を教わったんだろうね、誰が「大人になったとき困る」って吹き込んだんだろうね、とも・・・。 あの・・・くれぐれも、何が悪いとか何が良いとか、そういうハナシではありませんから、誤解のないよう。ただ、面白いな、と思っただけです。Kama