人を殺すモノ、人を生かすモノ
今回は、哲学チックに書いてみよう。昨日、ドラマ「あしたの喜多善男」が最終回を迎えた。前に書いたとおり、僕はこのドラマにハマってしまったのでむろん、放映時間はバリバリ授業中であるから毎週ビデオに録画して見ていた。 11日後に自ら命を絶つ決意をしていた主人公・喜多善男は結局、死ななかった。 ドラマの出来としてははっきり言って、ラストの展開は「駄作」の部類に入るのであろう。これまでの回の中での視聴者の予想を裏切るような、奇想天外の展開からすれば最終回は、あまりにあたりまえすぎた。あまりに善人すぎる主人公、喜多は実は、負の心を自分の無意識に追いやり、自分にとってつらく、苦しく、悲しい出来事があったとき、彼はその全てを認識・理解しているが、それを負の心においやって、顕在意識の自分はダメージを受けないようにしてきた。無意識における負の心は、やがて顕在意識での喜多においては具現化し、「ネガティブ善男」という自分と同人物であり、でも自分とは別の人格を創り上げる。最終回の一回前でここまでが語られた。 監督があの「ナイトヘッド」などの飯田監督だから僕の予想する結末は2つあった。 1つは、実際の最終回と同じもの。 もう1つは、実は諸々の事件の犯人は無意識で行動していた、喜多自身であったというオチ。 誰が自分の愛する人を苦しめているのか。 そういぶかる喜多に実は、負の心と向き合わなかった自分自身がやっていたことだという事実がつきつけられる。 正直、僕はこちらの結末を強く予想していた。 が、実際の結末は、これまでのストーリー展開を一気に駄作にしてしまうような、あまりに陳腐なものであった。 観ていなかった人にとっては何のことだかわかりづらいのでドラマの内容についてはこのあたりにしておく。 ところで、最終回、ひょっとすると飯田監督をはじめとするスタッフがこのことを伝えたいがためにドラマの衝撃性を捨ててまでこうしたのではないかと思える、確信にせまるメッセージがあった。 主人公・喜多はいよいよ自らの命を絶つために旅に出る。 彼は言う。 自分の命を消すのは自分に最後に残された、たったひとつの「自由」だ、と。この物語の原作は「自由処刑」という。死ぬことに「自由」を見出す男の話である。 ドラマの喜多の身を案じるヒロインが、涙しながら読みあげる芝居のセリフが、こうだ。 「ヒトは、人を恨み、怒り、裁いて罰を与えようとする。怒りに身をゆだね、行動することは実はそれほど困難なことではないのだ。人間にとって最も困難なこと、それは、他者を、そして、自分を『許すこと』なのだ。その先にこそ調和があると知りながらもヒトは、『許すこと』をなかなかできない。誰もがその内側に黒いものをかかえている。誰かを傷つけることもある。罪を犯すことも。悲しみにうちひしがれることもあるだろう。だが、その同じ人間が、純粋に『愛』を求めることがある。本当の愛を手に入れたいのならば、『許すこと』を知りなさい。他者を、そして、自らを。」これは、聖書の言葉だろうか。 かつて、エヴァンゲリオンというアニメが一世を風靡した。それは、主人公の存在があまりに自分たちに近かったからだと、僕は分析している。 主人公は、特別な存在ではない。強い存在ではない。非常に弱く、他者との接触を恐れ、他人に嫌われ、他人を傷つけることを嫌うがため、そんな行動をとりかねない自分自身を嫌う。アニメ中では「ハリネズミのジレンマ」と紹介されたこれは、心理学上では、ひとつのトピックにすぎない。が、喜多善男しかり、碇シンジしかり、彼らは「負」に向かい合うことができない。片方は「負」を無意識に追いやることで意識の自分の存在を成り立たせた。片方は、「負」に出会わぬよう意識の自分を制限した。彼ら両方が本当の自分に出会い、自分の「心」と向き合い、自分を許し、他者を許すまでに時間がかかった。 「負」に向き合う勇気。 それがヒトをヒトとして成り立たせる。 そして・・・。 「負」に向きあう勇気。 それは「他者」が与えてくれる。 ドラマの喜多善男は「自ら死を選ぶこと」を「自由」と評した。 箴言である。 「死」は「他者」に与えられるものではない。無論、肉体的なそれを言っているのではない。あくまでも、精神的な、存在的な「死」についてである。 存在的な「死」は他者に指示されうるものではない。 自分であれば、確かに選ぶこともできよう。 が、僕は前に書いたとおり、自ら「存在的な死」を選択することは断固認めない。 そして、存在を失いかけている人間に対して「生」を与える者。 それは、他者である。 ドラマの喜多は結局、「喜多さんがいなくなっちゃったらオレが困るんだよ!」という、他者の欲求で自らの命を絶つ自由を放棄した。 これまた、箴言である。 あなたは、あなた自身のために生きているのではない。あなたが生きていないと、私が困る。あなたは、私のために生きなければならない。 ひるがえって、 私は、私自身のためだけに生きているのではない。私は、あなたのために生きているのだ。 しかして、 私が、あなたのために生きること。そのことが私のためであるのだ。 ・・・本来、原稿用紙100枚以上かけて書くような内容ですからね~核となる部分だけ抜いていったら中途半端になってしまいましたね(苦笑 でも、生死に限らず、ヒトの存在の本質をついているような気はします。むろん、ここでは「社会的な存在」としてのヒトに限ったハナシですが。 最後に、現実問題に即して簡単に言うと、こういうことです。 ヒトは他者によって自分の存在意義を感じられる。 つまり・・・ 他者に必要とされ、他者に評価されることが、自身の存在につながる。 だから・・・ 僕らのような仕事であればもちろんだけれども、誰しもが、他者を「認め」、他者を「必要」とし、(キミがいてくれて助かったよ!)他者を「評価」する。(褒める) 結局のところ、「もっと褒めよう!」という実に当たり前のことにいきついただけというハナシもありますが・・・。 ドラマは終わってしまいましたが、大変勉強になりました。Kama