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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津のキリシタン】 これも前述の墓石と同じ墓地にありました。「皈空 天桂靈補居士」と彫られています。そして側面には「寛保二酉十月十一日」と彫られています。しかし、寛保二年(1742)は「酉」ではなく「戌」です。今までにも、こうした誤記のある墓石をここでご紹介したことがありますが、もしかすると、この戒名の方が亡くなられてから、かなり時間が経ってからこの墓石が建てられたのかもしれません。 かなり以前にここでご紹介したと記憶していますが、会津には「寛永五戊辰年四月十一日逝」と彫られた墓石が残っているのですが、ほとんど風化していませんし、寛永年間にはお寺はまだ葬儀や法事を行っていません。勿論、一般民衆に戒名を付けることもしていません。おそらく、かなり後代になって建てられた墓石であろうと思われます。 これは、蒲生氏郷や蒲生秀行あるいは蒲生忠郷に戒名が付けられているのと同じです。後代の人々が、宗門人別制度が施行されてからお寺に依頼して戒名を付けていただいたのであろうと考えられます。保科松平会津藩には、先祖が蒲生家の家臣だった家々がありました。その中には、外堀の内側に屋敷があった家もあります。 蒲生氏郷に戒名が付けられているから、蒲生氏郷は晩年に棄教していると書かれているサイトに出会ったことがありました。しかし、蒲生氏郷の時代には、宗門人別制度は影も形もありません。少なくとも会津で宗門人別制度が施行されたのは保科正之公以降のことです。加藤明成の時代に宗門人別制度が施行された痕跡に出会ったことがありませんし、勿論記録も残っていません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.03.28 08:01:49
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