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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津のキリシタン】 前述までの墓地にあった表面破壊墓石です。一部の文字を確認することは出来ますが、ほとんどの文字を読み取ることが出来ません。ここは明治中期までは会津だったのですが、それ以降は隣県に編入されましたが、こうした墓石の文字列を消すことは、県境を越えて伝わっていたことが判ります。『会津キリシタン研究 補遺』で少し詳しく論じていますが、こうした墓石の文字列が切削されたのは戦後のことであろうと思われます。 ただ、この墓地にある表面破壊墓石は、会津の他の地域にある表面破壊墓石と比べると、激しく破壊されているものが多いです。そして、このブログには写真のファイルナンバーを記していませんが、こうして書いている原稿のファイルネームには、どの写真を使っているかすぐに判るために、画像ファイルのファイルネームを記しているのですが、これらの4基の表面破壊墓石のナンバーは離れています。つまり、こうした表面破壊墓石は一ヶ所にあるわけではなく、様々なお宅の墓域にあります。そして、ここでご紹介した転切支丹類族に付けられた戒名と思われる墓石がそのまま残っているのですから、こうした表面破壊が村で纏まって行われたわけではないと考えられます。 かつて、会津のとある村にあるお宅からメダイが出て来たのですが、そのお宅の方が「こったらもんあったらこまるぅ」とおっしゃられたそうです。しかし、何が困るのか小生にはよく判りません。 日本に国教はありません。天皇家の宗教は天皇家の宗教であって、それを国民が受け容れなければならないと言うこともありません。そして、仏教が国教と言える情況にあった時代はありません。江戸時代には、お寺は寺社奉行によって厳しく監視されていました。これを明らかにしている記録も『会津藩家世実紀』に何ヶ所もあります。しかし、日本の中ではまだ、この憲法第二十条が正確に理解されていないようです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.03.28 09:31:56
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