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テーマ:キリシタン(4919)
カテゴリ:キリシタン
【会津のキリシタン】 これも前述までの墓石と同じ墓地にありました。上部に<〇>が彫られています。元禄14年は1701年です。この年には各藩の宗門改め役の交代に関する報告義務が解除されています。幕府は、この頃には日本全国の藩で、宗門人別制度が施行され、ほぼ順調にそれが機能していたと考えたからなのかもしれません。 そして会津でも、この頃には宗門人別制度がほぼ全域で施行されていたと考えられます。ただ、転切支丹類族の範囲が明確に規定されていなかったので、何代目までを転切支丹類族とするかに関しては、会津では会津なりの判断をしていたのであろうと思われます。しかし、元禄二年には既に、「切支丹宗門類族之者従公儀御赦免」にしていますから、かなり緩やかに考えられていたのであろうと思われます。この時には武家の26名が類族でなくなっています。そして、「従公儀」とありますから、幕府の宗門改役の許可を得てということなのであろうと考えられます。元禄二年はしかし、1689年です。しかもこの28名の中の一人は、この後すぐに家老に抜擢されています。 実は、保科正之公がお亡くなりになられた後、この元禄期までに藩内で行われたことの中に実に不思議なことがあります。小生は、会津のキリシタンの謎を解明出来るのは、この時期に行われたことの中に隠れていると考えています。それも、『会津藩家世実紀』の原文の中ではなく、編纂者の註の中に隠れているように思えてなりません。これに関しては、現在準備中の論文の中で明らかにします。そして、友松勘十郎氏興だけが伝え聞いていた保科正之公の御遺言があったように思えてなりませんが、『会津藩家世実紀』はそうしたシーンがあったことは記していますが、内容に関してはまったく沈黙しています。 会津のキリシタン史は、この時代にすべてが隠れているように思えてなりません。しかし、会津史に関する文献には、このことはほとんど記されていません。ですから、よけいに気になって仕方がありませんでした、『会津藩家世実紀』と高遠藩史に関する研究書を読んできて、『会津藩家世実紀』の行間に隠れていることが見えてきました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.03.28 16:19:09
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