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テーマ:信濃の風景(234)
カテゴリ:キリシタン
【諏訪の風景】 前述の織部灯籠があった庭園の少し高いところに、上の写真の扁額が掲げられている祠があって、その横に「秋葉大権現」と彫られた石碑が建てられていました。こうしたことを、明治時代に「神仏混淆」と呼んだのであろうと思われるのですが、宗教は常に文化接触の中で変化してきました。そして、16世紀にキリシタンがヨーロッパから入って来て、それが宗門人別制度に影響したことも間違いないと考えられます。宗門人別制度上の具体的な手続きは、キリスト教会が古い時代から継承してきた手続きのコピーです。 現在はこうした手続きは行われていませんが、江戸時代にはお寺にとってこの手続きは非常に重要なことでした。ですから、お寺が火災に遭うと、ご本尊を最初に持ち出すのではなく、お寺で保管することを命じられている宗門人別帳をまず持ち出したとされています。そしてこうした宗教の変化は、日本だけで起こったことではありません。世界中の宗教が様々なところで、文化接触によってに変化してきました。 しかし、日本の宗教史で一番気になるのは、明治「政府」を中心に、明治初期に宗教の優劣を考えたことだと小生は考えています。明治「政府」の官吏の多くは武士だった人々です。武士の多くは宗教的儀式を忌避していました。儒教の影響であろうといわれていますが、神道は原則として儀式そのものが信仰であり、それを継承することによって神社が継承されてきています。にもかかわらず、彼らはインドから中国経由で日本に入って来た仏教を忌避したのですが、そうしたことを彼らが何故行ったのかを、もう一度はっきりさせないと、日本国憲法の信教の自由の意味が具現化することは難しいであろうと小生は考えています。 それにしても不思議です。織部灯籠と秋葉大権現にどの様な関係があるのでしょうか。そして、曹洞宗のこのお寺とどの様な関係があるのでしょうか。このお寺の裏山にある墓地にも、不思議なものがいくつも残っていました。東京分室からだと、諏訪は夏の間は日帰り可能なところなので、もう少し色々なところを巡ってみたいと思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.03.30 09:10:32
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