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テーマ:信濃の風景(234)
カテゴリ:キリシタン
【旧高遠藩領内の風景】 これは2011年1月26日に撮った写真です。旧高遠藩領内のとある村の道路脇に「庚申」碑や「甲子」碑が建てられていました。ここにも「二十六夜」と彫られている石碑や「大国神」と彫られている石碑などが並べられています。そして、ここに並べられている「庚申」碑も庚申の年に、「甲子」碑も甲子の年に建てられています。 こうした習慣は旧高遠藩領内だけでなく、下伊那郡にもあります。しかし、こうした習慣がいつごろ始まったのかは明らかにされていません。そして、村々に残っている石碑に彫られた年号を見ると、古いものが残っている村と古いものが残っていない村があることに気がつかされます。ですから、古い時代にどこかの村で始まった習慣が、旧高遠藩領内に広がったように思えます。 これと同じ習慣が、しかし「庚申」碑だけですが、庚申の年に建てられている村が会津にあるのですが、その村に残っている一番古い「庚申」碑は延宝八年(1680)のものです。この年には既に保科正之公が会津藩主でした。ですから、あの村で庚申の年に「庚申」碑を建てる習慣が残っているのは、あの村にも保科正之公と共に、山形最上経由で会津に入ってきた家々があると考えることも出来ます。 やはり、会津のキリシタン史は伊那谷と密接な結びつきがあるように思えます。高遠は、キリシタンを考える時に、非常に興味深いものがあります。そして、『会津藩家世実記』に残されている不思議な記録を考えると、深遠なキリシタンの歴史が見えてきます。そして、保科正之公だけでなく、会津藩の重臣たちの深い想いも見えてきます。明日、昼過ぎには東京分室に出発します。ここに書き込めるのは、東京に着いてからになると思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.03.30 21:03:35
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