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テーマ:会津の風景(427)
カテゴリ:キリシタン
【会津の風景】 上の写真は先週の日曜日に撮った写真です。ここでもご紹介しましたが、下の写真は2004年5月3日に撮った写真です。ただし、この石塔に最初に出会ったのは1998年でした。明らかに「己侍供養」と彫られています。しかし、この石塔の横には「已待供養塔」と彫られた石塔があったので、「己侍」は誤字であろうと考えていましたが、会津にある「巳待供養塔」に数多く出会って来た中で、もしかすると、「巳待」は「己侍」を隠しているのではないかとも考え始めていました。 そして、2004年にとある村を訪ねた時に、「『巳待』は『己侍』だと教えられました」と教えていただきました。そして、だとすれば昨日した蒲生軍団や帰農した加藤家の家臣集団であろうと考え始めたのですが、旧高遠藩領内を何回も訪ねているうちに、それだけではないことを痛切に考えさせられました。 こうした「巳待」と彫られた石塔や石碑が残っている村々には、保科正之公と共に、旧高遠藩領内から山形最上経由で会津に入って来ていると考えられる家々がありますし、小生のデータベースを並べ替えていくと、ある一定の規則性があるように見えてきました。そして、それを『会津藩家世実紀』に残されている記録と照合していくと、会津のキリシタン史が見えてきました。 今日は、日曜日の午後に出発したので、東京分室まで5時間半もかかってしまいました。かなり疲れていたのですが、会津で集めたデータを東京分室のパソコンやバックアップ用のハードディスクにコピーしていたら、こんな時刻になってしまいました。明日からまた、ここで『会津藩家世実紀』と格闘します。『会津藩家世実紀』は、会津藩の家老たちが、まだ若い松平容衆(かたひろ)に、保科松平家の歴史を知っていただくために編纂した膨大な資料集だけあって、様々な出来事の裏の裏まで見えてきます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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