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テーマ:甲斐の風景(15)
カテゴリ:キリシタン
【甲斐の風景】 この首無し地蔵も同じところにありました。最近、こうした石像の破壊の理由が、本当に「廃仏毀釈」であったのかどうか、小生の中では大きな疑問になっています。あるいは「廃仏毀釈」と言われている事柄は、明治「政府」の神仏分離政策によるモノであったのかどうか。 「神仏分離」と「廃仏毀釈」を一般民衆が密接に結びつけていたかどうかが明らかにされる史料が残っているのでしょうか。会津では、全市町村にこうした首無し地蔵が残っています。勿論修復されたものも含めますが、しかし、会津全体の中に、何らかの共通した考え方があったように思えてなりません。 そしてそうした考え方が、東京とその近郊で始まったとされる「廃仏毀釈」という石像破壊が地方で地蔵菩薩像の首を落とすという行為に繋がっていったように思えてなりません。山手線の内側にも転切支丹類族がいたことは間違いありません。それを示す墓石が残っています。しかし、こうした東京から離れたところでも、地蔵菩薩像の首が落とされていますし、関東地方でも首無し地蔵が残っていることを確認しています。 お近くの方は、房総半島の南部にある小さな町々を少し訪ねてみて下さい。間違いなく、不思議なモノに出会えると思いますし、運が良ければ、キリシタンに関する伝承を耳にすることが出来るかもしれません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.04.03 08:35:06
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