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テーマ:甲斐の風景(15)
カテゴリ:キリシタン
【甲斐の風景】 前述までのモノが集められているところから撮った観音堂の写真です。つまり、前述までのものはこの観音堂の境内にあるということになります。この観音堂は、ここから参道を下ったところにあるお寺の境内に建てられている説明板には、「桁行10.90m 梁間9.12m 入母屋造り向拝付き茅葺きの建物で諏訪の立川和四郎富昌らによって弘化二年(1845)着工約二十年の歳月を費やして竣工をみた立川流を代表する建物である。」と記されています。 ということは、この観音堂は戊辰戦争の直前に建てられたものであるということになるのですが、ここにあるお寺は臨済宗妙心寺派のお寺です。一体何故、臨済宗のお寺が江戸時代末期に観音堂を建てたのでしょうか。確かに、臨済宗のお寺に観音堂が建てられているのは、このお寺だけではありません。しかし、臨済宗は禅宗です。観音菩薩を祀って、それをお詣りする習慣はなかったはずです。キリスト教で言えば、改革派・長老派の教会の敷地内に聖母マリア像を祀ったお堂が建てられているのと同じことだと小生は考えています。 そして、このお寺の山門からお寺が建てられている途中の平らな部分煮上がったところには、守屋貞治が彫ったとされている観音菩薩石仏が並べられています。作風は守屋貞治の彫った観音菩薩石仏に似ていますが、小生が調べた範囲では、守屋貞治自身が書き残した作品リストには載っていないようです。ただ、守屋貞治の作品であるかないかということはあまり問題ではありません。この守屋貞治が彫ったとされる観音菩薩石仏以外に67体の観音菩薩石仏があり、「百観音」としてお寺の境内や、観音堂に上がっていく階段の両脇に祀られています。 また、お寺がある平らなところへ上がる入口から続く参道は、この観音堂へお寺の裏から上がる参道と繋がっていたようにも思えます。ですから、この観音堂が江戸時代末期に建立されたのは、以前にあった観音堂を建て直したものかもしれません。つまり、説明板によればこのお寺は「創建は遠く養老元年(717)にさかのぼるといわれているが文保二年(1318)元に留学した石室善玖禅師の再興した〇北の大寺である」とのことですが、もしかすると観音堂が建てられているところに、このお寺が建てられた可能性もあると小生は考えています。会津には、そう思える観音堂とお寺があります。 ※「○」は「狭」の偏が消えているように見えます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.04.03 15:01:49
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