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テーマ:信濃の風景(234)
カテゴリ:キリシタン
【信濃の風景】 前述の墓石があったところから、少し離れた集落の道路脇にあった、自然石に不動明王が彫られたものです。「大正四年」と彫られています。この一帯にはお寺は1ヶ寺しかありません。それも、臨済宗妙心寺派のお寺です。ですから、この石仏もお寺とは関わりなく彫られたものであろうと考えられます。 仏教の各宗旨は、大きく異なっていることがよくあります。禅宗では、ご本尊が釈迦如来像や地蔵菩薩像であることが多く、不動明王を始め様々な明王を祀ってそれを拝むということをしてきていません。「禅宗」というくらいですから、禅を組むことが中心です。時に曹洞宗では「只管打坐」という中心的な考え方がありますから、ただひたすら禅を組み続けてきていました。 しかし、江戸時代の宗門人別制度下では、そうしたことを檀家の人々に教えることは許可されていませんでした。ですから、観音信仰や地蔵信仰が、檀那寺の宗旨とは関わりなく入り込んでいたとと考えられてきたのですが、この村は明治時代初期までは本当に山奥の村でした。そうしたところにある村々に、どのような人々が不動明王信仰を伝えたのでしょうか。 宗門人別制度下では、お寺は自分のお寺の檀家以外の家々と関係を持つことを禁じられていました。これはかなり厳しく取り締まられていたようで、会津では、他のお寺の檀家と関係を持ったという理由で僧侶が捕縛されているケースを『会津藩家世実紀』の中に見つけることが出来ません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.04.07 17:52:12
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