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カテゴリ:キリシタン
【会津の風景】 会津のとある村に「庚申」碑です。左下の「庚申」碑には「明和元甲天」と彫られています。この年は1764年で「甲申」の年ですが、「奉供養庚申」と彫られています。左上は「大正九年」「右上は寛政十二年」と彫られていて、右下の「庚申」碑の側面には「万延元天」と彫られています。(右下の写真は、光線の加減で、文字を浮かび上がらせるのが難しかったので、ワイヤレスでストロボを使っています) ここを最初に訪れたのは1998年5月4日でした。ですから、旧高遠藩領内だけでなく、伊那谷の広範囲に庚申の年に「庚申」碑を建てる習慣が残っていることを知りませんでした。ですから、その後、伊那谷や高遠藩に関する文献を読んでいて、非常に驚かされ、それ以降は伊那谷を訪れて「庚申」碑や「甲子」碑に出会う度に建立年を確認してきました。 「保科正之公が山形最上へ移封される時に、3000人の農民が武士に取り立てられて、山形最上へ移住しました」ということを旧高遠藩領内で最初にお伺いした時に、『会津藩家世実紀』に残っている不思議な記録が不思議でなくなったり、こうして会津にも庚申の年に建てられた「庚申」碑があることが不思議でなくなりました。 会津キリシタン研究所の車は会津ナンバーですが、それをご覧になって、わざわざ車のところまで来て声をかけて下さった方もいらっしゃいました。「みんなが保科正之公について会津まで行きたかったそうです」とおっしゃった方もいました。しかし、こうした記録は、『会津藩家世実紀』にも『新編会津風土記』にも記されていません。しかし、伊那市高遠町だけでなく、旧高遠藩領内全域にそうした伝承が伝わっていることは間違いなさそうです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.04.09 08:12:35
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