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テーマ:会津の風景(427)
カテゴリ:キリシタン
【会津の風景】 元和元年、江戸幕府は武家諸法度・禁中並びに公家諸法度・諸寺院法度を発布していますが、同じ年に『一国一城令』を出しています。しかし、会津藩では若松の鶴ヶ城以外に、猪苗代の亀ヶ城を城として認めました。つまり、一国一城令の例外としました。会津藩主は家康の孫娘の夫である蒲生忠郷の時代です。おそらく、北の伊達政宗を牽制するためであったのであろうと思われます。 そして、その後の元和八年(1622)に、猪苗代でキリシタンの殉教が起こっています。かなりのキリシタンが処刑されたと伝わり、処刑場所を流れていた小黒川の水が真っ赤になったという伝承も伝わっています。しかし、猪苗代にだけキリシタンがいたわけではないことは、これまでここをお読みになられた方々にはお判り頂けるであろうと思います。 確かに、猪苗代にはかなりの数のキリシタンがいたことは、残されているモノから確認できていますが、しかし、この時期に廃村になった村を『新編会津風土記』で確認することが出来ません。そして、猪苗代にもかなりはっきりとしたキリシタンのモノが残っています。おそらく、それがキリシタンのモノであるとどなたもお気付きにならなかったからであろうと思われます。 慶長十四年(1609)に、猪苗代の城代であった関一政が三春城代だった蒲生郷成と共に会津藩を出奔してのですが、その後に猪苗代城代になった岡越後守四郎右衛門左内は、極めて熱心なキリシタンで猪苗代にはセミナリオが建てられました。このセミナリオが建てられていた場所に関しても、猪苗代には伝承が残っていました。土津神社の手前右側にあった建物だという説がありますが、あの建物は保科正之公が亡くなられてから建てられたもので、藩主が土津神社に参拝に来られた時に、休憩するための建物でした。これは、『新編会津風土記』に記されています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.04.09 14:33:16
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