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テーマ:信濃の風景(234)
カテゴリ:キリシタン
【下伊那郡の風景】 伊那谷の南側が下伊那郡です。ここは保科家が高遠藩主だった時代にも高遠藩領ではありませんでした。それで、庚申の年に「庚申」碑を、甲子の年に「甲子」碑を建てる習慣が、この下伊那郡にもあったかどうかを確かめるために、ランダムに下伊那郡を巡ってみました。2011年2月のことです。 やはりありました。これはその日に最初に見付けた「庚申」碑と「甲子」碑が建てられていた場所です。下伊那郡のとある村の入り口付近で、道路脇です。右端の大きな石碑には「正一位秋葉山大権現」と彫られています。「甲子」碑の左側にあるのは、馬頭観音石仏ですが、右から2番目の石仏に彫られている像は、何の像かはっきりしませんでした。墓石や石碑だけでなく、風化している石仏も雨に濡れると、彫られている像がはっきりしなくなります。 ただ、時として、文字列を削った墓石が濡れると、彫られていた文字列を解読することが出来ることがあります。その為であろうかと思われるのですが、一度削った墓石をもう一度削り直したように見える表面破壊墓石に会津で出会ったことがあります。 下伊那郡は京極高知が飯田城主だった時代には、京極領でした。そしてこの時には既に、高遠は伊那谷のキリシタンの拠点になっています。そして、関ヶ原の戦いよりも前のことですから、宗門人別制度は影も形もない時代です。仏教寺院は、まだ一般民衆の死に関わるイニシエーションに関与していない時代です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.04.10 10:24:08
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